たかはし

わたしは、ダニエル・ブレイクのたかはしのレビュー・感想・評価

4.5
ケン・ローチ監督作品。大学の授業では何度もその名前を聞いていたものの、映画をちゃんと見るのははじめて。

去年ゼミの三年生(いま四年生)12人くらいが卒論のアウトラインをプレゼンしていたのをほんのりと聴いていたのですが、うち2名がケン・ローチの映画を卒論でやると言っていました、「わたしは、ダニエル・ブレイク」と「この自由な世界で」。

ダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)は「地位の高い者には媚びないが、隣人には手を貸す」ような人で、正直で頑固で情深く、困ってる人には必ず手を差し伸べる。そんな彼は心臓の病気で仕事ができなくなり、公的にお金の援助を受けるためにお役所に向かう。そこで彼は、貧困に喘ぎながら二人の子供を育てる移民のシングルマザー、ケイティ・モーガン(ヘイリー・スクワイアーズ)と出会う。そこから物語が進んでいく。

半年くらい前にブレイディみかこ『ヨーロッパ・コーリング:地べたからのポリティカル・レポート』(岩波書店, 2016)を固有名詞のわからなさに呻吟しつつ読んだ。帯には「もはや右対左ではない。下対上の時代だ」とあった。この映画はまさに「下対上の時代」を表象していた。

現在のイギリス社会をありのままに映し出すシリアスさを有していながらもユーモアが散りばめられている。シリアスでありながらユーモラス。そのユーモアは “地べた” あるいは “下” のユーモアであって、決して “上” のそれではない。

いま人文社会学系で流行っているカルチュラル・スタディーズ(ケン・ローチの作品を扱うと言った彼女らの卒論は、その問いの立て方にもよるけれど、カルスタの守備範囲だと思います)。カルスタは、もとを糾せば、イギリスのニューレフトの研究者たちがそれまでほとんど見向きもされなかった労働者階級の文化を研究し始めたことに端を発する。それは、漱石研究者の石原千秋が書いたユニークな書籍『大学生の論文執筆法』(ちくま新書, 2006)を大学二年生の時に書店でたまたま手に取ったことで知った(漱石は英文学者だったから、英文学科の学生だった僕はその意味で漱石に惹かれていた!)。ただ、しかしながら、イギリスでカルスタが始まったことの意味が釈然としなかった。その “事の重大さ” が理解できずにいた。けれど、この映画を見て、やっと、その片鱗を捉えられたように思う。

ちなみに、文科省特別選定作品とのこと。日本のお役所はこれを機に変わろうとしているのか、はたまた役所は日本でもこんなもんですよと諦念させる滑稽か。



「私は依頼人でも顧客でもユーザーでもない。怠け者でも、たかり屋でも、物乞いでも泥棒でもない。国民保険番号でもなく、エラー音でもない。きちんと税金を払ってきた。それを誇りに思ってる。地位の高い者には媚びないが、隣人には手を貸す。施しは要らない。私はダニエル・ブレイク。人間だ、犬ではない。当たり前の権利を要求する、敬意ある態度というものを。私はダニエル・ブレイク。一人の市民だ、それ以上でもそれ以下でもない」