yoshi

セールスマンのyoshiのネタバレレビュー・内容・結末

セールスマン(2016年製作の映画)
4.1

このレビューはネタバレを含みます

かつてアッバス・キアロスタミ監督が発表した子どもを題材にした作品でしか、私はイランという国を知らなかった。
それらの映画に登場する田舎の子どもの目を通すことで、イラン社会の実情を垣間見ることができた。
イランの映画を見たのは90年代以来だ。

1979年の革命からイスラム法学者が厳しい戒律のもと、独裁的に政治を行う宗教国家となったイラン。

イスラムの戒律から外れることは「穢れる」こと。誰もがそれを死ぬほど恐れている…。
それが初見の感想である。
心を抉られるサスペンス映画だった。

キアロスタミ監督の映画よりも、現在のイランの文明水準は発達しているように見受けられた。
しかし、本作に登場する人物の道徳観はいまだあの頃のままだという印象を受ける。

本作で描かれるのは、小さな劇団に所属する、教師のエマッド(シャハブ・ホセイニ)とその妻ラナ(タラネ・アリドゥスティ)の物語だ。

アーサー・ミラー原作の舞台劇「セールスマンの死」の上演初日の夜に事件は起こる。
先に帰宅したラナがシャワーを浴びている間、男が部屋に侵入し、暴行に及んだのだ。
ラナは肉体的な被害と精神的なショックを受けてしまう。しかし、彼女は警察に訴えることをしなかった…。

イラン社会で女性が訴えを起こすことに消極的なのには、いまだ男尊女卑の戒律が残っているからだろう。
教師のエマッドが務める学校が男女別学であることからも、視覚的にそれを匂わせる。

社会が保守的で偏見が残っているほど、女性は性的な暴行への被害を訴えづらい。

日本においても被害を訴えたことで、逆に被害者が好奇の目にさらされたり、周囲の者や無関係の人間から攻撃的な言葉を投げかけられたりなど、二次的な被害が起こる場合がある。

本作は訴えを断念させられる被害女性の姿を描くことで、閉塞的な社会を告発している。

この事件が原因で、ラナは活発さを失い、沈んだ性格となり、穏やかなエマッドは怒りを抑えられなくなっていく。

二人の心はすれ違い、夫婦仲は険悪になっていく。エマッドは復讐心に駆り立てられ、警察に頼らず独自に事件を捜査する。

イスラム社会の男尊女卑という保守的な価値観が、男にとって都合のいい社会であると同時に、男たち自身をあるモラルに縛りつけている実態が浮かび上がる。

それは「男は働き、家庭を守る責任がある」ということだ。
ひいては、「愛する者を守れない男は、人間として失格だ」という強迫観念だ。
この問題は現在も継続されており、日本の社会も同じようなモラルに包まれている。

「愛する者を守る」という考え方自体は決して悪いものではない。
しかし、既に愛する者を守れなかった者はどうすればいいのか?

エマッドはイスラム社会での名誉を回復するために復讐心に囚われて行く。


本作がなぜ「セールスマンの死」を取り上げるのか?
この劇中劇は「家庭を守れなかった男」が自殺する話だ。
この劇はアメリカの保守的な価値観の失墜を意味する。

同様に保守的なイスラム教社会は「そうあらねばならぬ」と人間の生き方を強制する「暴力性」があるのだ。

エマッド自身もまた、保守的な型にハマり、自らの暴力性をコントロールできなくなっていく。

エマッドはついに犯人と対峙する。
妻を襲った犯人は、老人だった。

彼はアパートの前の住人であった娼婦の客。娼婦が引っ越したことを知らず、シャワーを浴びていたラナを娼婦と勘違いして覗こうとしたところ、人違いに驚き、凶行に及んだという。

エマッドが犯人の家族にお前がやったことを全部話す!と言っているのを聞き、彼女は反対する。

「そんなことをしたら、私たちはもう終わりよ。」
この一言がとても重い。

愛する夫が暴力に染まって欲しくない、という妻の想いがある。
また、エマッド自身のなかにある衝動的な暴力性こそが、自分を襲った暴力そのものであると感じたためだろう。
暴力を振るう者とは暮らせないという意思表示でもある。

そしてそれと同時に自分が襲われたことを犯人の家族や世間にに知られたくない思いがある。
それはラナが娼婦ではないか?と世間に疑われ、白い目で見られる。

また事件が世間に知られた場合、夫のエマッドも「家庭を守れなかった男」というレッテルを貼られるからだ。

犯人の老人も同様に「娼婦を買う」という事実を知られれば、これまで築いてきた家庭や世間での信用は失墜する。
しかも娘がもうすぐ結婚するという。
犯人の信用失墜は、自分だけでなく、娘の結婚もご破算にしてしまう。

本作の誰もが「穢れる」ことを恐れているのだ❗️
直接的な暴力を受けることや死よりも、イスラム教社会から疎外されることの方を恐れている。

駆け付けた犯人の家族が心配する様子から、犯人も決して悪人ではないことが分かる。
犯人の妻は「夫は私の全て。私の宝。」とさえ言う。

それを見たエマッドは、事件の真相を公にせず、自分の胸のうちに秘める決意をする。

エマッドは「金はいくら置いていった?」と聞き、紙幣を何枚かビニール袋の中に入れ、男に手渡す。
そして遣り切れない思いで、男の頬を激しく叩く。

それまでの過度の緊張から解放され、家族に知られずに済んだ安堵から、犯人の男は帰路で倒れ、救急車で搬送される。

翌日、芝居のメイクをしているエマッドとラナ。二人はそれぞれ、鏡に映る自分の顔をじっと見つめる。
これで良かったのか?と自分に問うかのように。
これで良かったのだと、自分に言い聞かせるように。

ファルハディ監督は、一組の男女の関係のなかに、イラン社会の閉塞性と暴力性を投影してみせた。

相手に対しての想像力を失い、ひとつの価値観によって乱暴に人間をコントロールしようとする暴力。

暴力による負の連鎖を止めるには、「赦す」ことしかないのだろうか?

男として、夫として、私はどうするだろうか?

同じ中東を舞台にした映画「灼熱の魂」の母親にも通ずる、大変心の痛む決着の付け方であった。



追記。
本作が厳しい目を向けるイラン社会の閉塞性と暴力性という現実は、イランだけにとどまる問題ではない。

イスラム教徒全体を危険視し、排除しようとする現在のアメリカ政府もまた、イラン政府と同様に閉塞的であり、暴力的なのだ。
その点でイランとアメリカは、反発し合いつつも同種の社会になりつつあると思うのだが…。

この作品は第69回カンヌ国際映画祭でも脚本賞と男優賞をダブル受賞している。
そして第89回アカデミー賞外国語映画賞にイラン代表作として出品され受賞。

しかし、トランプ政権によるイランを含む特定七か国からの入国制限命令に抗議して、監督のアスガー・ファルハディと主演女優のタラネ・アリドゥスティが授賞式へのボイコットを表明。

現実世界では「赦し」も歩み寄りもないのが悲しい…。
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