Kumonohate

ブンミおじさんの森のKumonohateのレビュー・感想・評価

ブンミおじさんの森(2010年製作の映画)
3.8
カンヌでパルムドールを受賞したタイ映画。腎臓を患うブンミおじさんは、森の近くで農場を営んでいる。ある日、おじさんの元を、亡き妻の妹と甥っ子が訪ねてくる。夕食を共にする3人だったが、そこへ死んだ妻が現れる。さらに、猿の精霊に身を変えた行方不明の息子もやってくる。そしておじさんは、妻の案内で、その妹と甥っ子を伴って森へ入ってゆく⋯。と、粗筋だけ読めばふむふむと思うが、実際に観てみると、とんでもなく奇妙で意味不明な作品。

さて、唐突にネコの話。

かつて「世界ネコ歩き」を観ていた我が家の愛猫カンナは、ネコが画面に出てくると、ラックに飛び乗り画面に触ろうとした。そして、ネコがフレームアウトすると、そいつが隠れてしまったと思い、テレビの裏側を探し始めた。当然、見つかるワケは無かった。

だが、今のカンナは「世界ネコ歩き」のネコを凝視はするが、決して触ったり探したりすることはない。おそらく、テレビに映るネコが、ホンモノだけれどホンモノじゃないことを学習したからだろう。ただし、じゃあそんなネコを映し出すこの板は何なんだ?どんな理屈でそこにホンモノだけれどホンモノじゃないネコがいるんだ?なんてことまで理解しているワケでは無い。わかっているのは、ネコたちが板から出て来ることはない、ということだけである。

そして、カンナには、それだけわかれば充分なのだ。テレビのネコに危害を加えられる心配は無く、彼らに毛づくろいをしてやる必要も無いことさえ分かれば、生きてゆく上で何の支障も無いのだから。

だが、我々は違う。物事の原因と結果を論理的に説明しようとする。それが出来ないと安心できない。すなわち、近代以降、西洋からもたらされた合理主義によって、我々は、ヨノナカをそのルールに基づいて理解するようになり、当てはまらないモノには違和感を抱くようになってしまったのである。遠近法によって、遠くのモノを小さく近くのモノ大きく見るようになった我々は、大好きなハンバーグが人間よりもでっかく描かれた絵を見ると、稚拙だと思うようになってしまった。故人の霊を見たと主張する人を、昨晩見た昔の写真と睡魔のなせるわざである、と調伏するようになってしまった。

本作では、そんな西洋的合理主義が排除されている。死者と生者、人間と精霊、前世と現世と来世、世界と別世界といった、合理主義的世界観では共存し得ない者同士が、論理的な説明や脈絡無しにサラリと共存しているのだ。だから、そこに理屈を求めると、辛いことになる。冒頭で意味不明と書いたのはそういうことだ。

だが、かといってつまらない作品かというと、必ずしもそうでは無い。こういった合理主義から逸脱したモノを、それなりに受け止めることが出来る。特定のルールでカッチリ固められていない時間や空間が、案外心地よかったりする。しかも、時々笑いも入っている。何より、合理主義だけが文法じゃ無くて俺たちには俺たちの文法があったはずだよな、というアジア人としてのプライドがくすぐられる。
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