okome

ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャーのokomeのレビュー・感想・評価

3.5

「楽しみましたか?」
ーー書くことを?
「いいえ。それを破ることを」


たまにはネガティブな感情にじっくり向き合うのも良いもんだ、と思わせてくれる贅沢な作品でした。

青春小説の金字塔、『ライ麦畑でつかまえて』の作者、J・D・サリンジャーの伝記映画。
だから必然的に、この作品も日々の鬱憤を抱えるティーンエイジャーの姿を映した、かつて誰もが経験した良く知っている「誰か」の物語になるのだろうと思っていました。
実際、映画の中盤まではその向きが強い。心地よいジャズのメロディーと美しいナイトクラブの情景と共に、一人の若者の野心と恋が描かれていく。画面から匂い立つような黄金期のアメリカの雰囲気と、古風な顔立ちの演者たち。特にサリンジャーを演じるニコラス・ホルトの、鋭くも繊細な美しい表情! 正直、これを二時間眺めてるだけでも意義がありました。


しかし、彼が徴兵によって戦争を経験し、PTSDを患ってしまってから、趣きが大きく変わっていく。
これまでサリンジャーは、日々感じる怒りや鬱屈した感情を、「物語を書く」という形で追体験する事で心の平穏を得ていた。物語に登場するキャラクターは彼自身であり、誰よりもよくお互いを理解している親友でもあったのです。
しかし、彼ら、特に書き始めた当初からずっと一緒だったホールデンというキャラクターの事を考える度に、戦争の体験がフラッシュバックして自分を苦しめるようになってしまう。

一度、何とかそれを克服して初の長編を書き上げる事に成功するも、今度はそれで得た名声に苦しむ事となる。ずっと自分だけの友人だったホールデンは、名声と共に彼の元を離れて、夥しい読者一人ひとりの心の中に住み着くようになってしまった。「他者の共感を得る」という、本来喜ばしいはずの事が、サリンジャーには耐えられない。全く見ず知らずの人間が、旧来の友人の名前を語る事がどうしても許容出来ないのだ。
そうして彼は、次第に現実、フィクション問わず友人たちと決別し、「書くこと」そのものに救いを求めるようになっていく。


サリンジャーを取り巻く人々は、個人差はあれど基本的には思いやりのある人物ばかりだ。
特に、恩師であるウィットと、出版エージェントのドロシーとの繋がりは深い。
彼らは口を揃えて言う。「出版こそが全てだ」と。
物語を書き、多くの人々に読まれること。
そして読者が、物語の中に見え隠れする作者自身の言葉を見つけ出し、共感してくれること。それこそが幸福である。
彼らにとって、書くことは様々は人たちと繋がるための、幸福になるための手段であり、そこへサリンジャーを導こうとするのです。

それを観ていて、当初自分は『一人ぼっちのサリンジャー』という邦題に対して懐疑的でした。全然一人ぼっちじゃないじゃないか、むしろ羨ましいくらい人に恵まれているじゃないか! と。それもそのはず、この物語は、サリンジャーが「自分から」一人ぼっちになっていく過程を描いているのです。
出版すら拒む彼に対し、ドロシーは言う。「ならそれでいい。幸せになって欲しいだけなの。いつも言っているでしょう。出版が全てじゃないわ」。自分たちの知っている幸福と、サリンジャーのそれは最早違う。理解しつつも、それでも彼を気遣う言葉が悲しい。


最終的に、サリンジャーは幸せだったのでしょうか。それは知る由もありません。
ただ、もし戦地での体験が無ければ、友人や恋人に囲まれた普通の幸せを得る事が出来ていたのは間違いないでしょう。本来の彼は、鬱憤を抱え、親に反抗し、可愛い女の子に夢中になるありふれた若者でしかないのだから。

身を引き裂くような苦しみが無ければ、名作は生まれなかったでしょう。物語に、文字通り身も心も捧げるような、孤高の天才にはなれなかったでしょう。でも、それは悪いことなのでしょうか。

少なくとも、平凡な自分には、彼が不憫に思えてなりませんでした。
okome

okome