桜花

哭声 コクソンの桜花のネタバレレビュー・内容・結末

哭声 コクソン(2016年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

ラザロや復活を行い、手には聖痕を持ち表層的にはキリストのようである國村隼。しかし、彼の所業の大半は黒ミサや姦淫、疫病の蔓延などであり、どこからどうみても悪魔である。

ムミョンは初登場シーンか石を投げる人、つまり罪のない人として(彼女がマグダラのマリアだという解釈もあるが、もしそうなら石は彼女に向かって投げられるはずである)扱われており、白装束を身に纏い國村隼に対立するものとして描かれる。

祈祷師は反國村隼の立場をとっていたが、蛾の幻覚を目の当たりにしてから國村隼の味方に転向したように描かれていた。しかし、最後の最後で國村隼が処分していたはずの写真たちをもっていたことが明かされる(そもそもこいつは土着信仰の担い手であるはずが、仏像を助手席に載せていたりと宗教的に節操がない)。始めからグルだったのだ。

「お前が悪魔と思うなら悪魔なんだろう」というセリフは聖と邪がいかに曖昧で主観的なことかを描いているようでもあり、そう言って人を惑わせようとする悪魔の囁きにも思える。

人は自分に対して益をなすか害をなすかによって聖と邪を区別しがちであるが、ラストのどんでん返しに次ぐどんでん返しはこのことを表現しているのかもしれない。

ムミョンは忘れ去られつつある元来のシャーマニズムを、祈祷師はシャーマニズムや仏教、儒教など様々なものを混ぜ合わせて出来上がった現在の民間信仰を体現しているのか。

この作品を見た人がほぼ悪行しか為していない國村隼をキリストだと読んでしまうという事実は非常に興味深く、人間がいかに表層に騙され、異端(混沌)へと誘われるか、神聖さはどこに宿るのか考えさせられる。
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