磔刑

アリー/ スター誕生の磔刑のレビュー・感想・評価

アリー/ スター誕生(2018年製作の映画)
3.9
「宵の明星」

もっとベタベタなサクセス・ストーリーかと思っていたが意外や意外、監督ブラッドリー・クーパーの作家性が突き抜けた大衆向けとは思えない程クセが強い作品となっていて予想外に楽しめた。

アリー(レディーガガ)とジャック(ブラッドリー・クーパー)が出会うまでが随分アッサリしてたので、彼らの過去の受難の日々(アルコール依存症やドラァグクイーンといった象徴で演出してるとはいえ)を今ひとつ感じ取れず、「ちょっと泣かせるには感動の前フリが足りないんじゃない?」とか懐疑的に思っていたりしたのだが、初めて二人が舞台で披露する“シャロウ”を聴いたら自然と涙腺崩壊させられ、自分でも「なんで泣いてんねん」って思った。

サクセス・ストーリーの基本である成功を勝ち取ったり、葛藤苦難を乗り越える記号的カタルシスは断崖を登る行為に例えれる。崖の険しさや高さが困難を極め、主人公との落差があればある程物語が盛り上がるものなのだが、驚く事に今作では崖の全貌(スターまでの道のりの険しさ)が映される事がほぼ皆無で、2人以外の人物の存在や“いつ”、“どこで”がバッサリカットされおり、その代わりに主人公二人の接写が全編通して映し出されている。
その大胆な演出は一見説明不足に陥りそうだが、ストーリーや記号的起伏と言ったありきたりな演出に頼らずに苦難に立ち向かう者の勇姿や魂を映し出そうとする野心的な演出であり、画面一杯に映し出される迸る汗、血の滲む指先、諦めを知らない鋭い眼光、その人間から溢れ出る力強い生命力に直感的に感動させられたのではないかと思う。

上記の通り作品全体ではブラッドリー・クーパーの作家性がギラギラと熱く光っているが、基本的には多くの魅せ場(ライブシーン)ではレディー・ガガのスター性が輝いており、ジャックがアリーを信じたように監督ブラッドリー・クーパーも彼らと同じように役者、アーティストとしてのレディー・ガガを信頼してる事を強く感じられ、その決して切れない信頼関係が熱狂のドラマを生み、作品に躍動感を与えてるのではないかと思えた。

私個人的にはアーティストのライブにおいて観客が勝手に歌い出すのって大嫌いな演出だ(アーティストが促したり、コーラスを担う行為意外)。でも最近のライブってアーティストの楽曲を聴きに行くって感覚ではなく、ライブを生演奏のカラオケと勘違いしてる自己陶酔的な輩が少なからずいて、そう言った考え方の人とは決して価値観を共有できない。映画の応援上映なんかもそれに該当すると思う(映画業界では住み分けできてるだけマシだが)。
でも今作のレディー・ガガの圧倒的歌唱力、ブラッドリー・クーパーの独創的な演出のアンサンブル。作品として完全に完成されたモノを観てると、としてもじゃないが間に割って入って歌おうなんて気は更々起きないだろうし、“非凡な才能ある者の圧倒的なパフォーマンス、それを受けた観客はただ感動するのみ。”って完璧な相互関係を築けてるだけでも作品として、映画としては十分過ぎると思うのですが。どうでしょうか?

欠点を挙げるなら意図的とはいえ、全体像を描かなさ過ぎる事には多少なりとも違和感を覚える。
アリーが全米デビューしたり、グラミーを取るほどの成功、光の部分。同賞にての夫の失態による闇の要素、その双方の描写がかなり断片的なので2人を取り囲む越えるべき世界の存在が非常にボンヤリしてて、客観的説得力に欠いている(圧巻のライブパフォーマンスでそれを補っているのだが)。
特にジャックの凋落がアリーと比べて相対的なものなのか、本当に社会から忘れられているのかが外部の視点を用いず描かれてるので観客が“考える余地”を生んでしまっており、物語の没入感や推進力の減退を生んでしまっているように思える。

それでもこの手のリメイク作にありがちな作家性皆無の凡作にならずに、演者、製作者共に攻めの姿勢を貫いているだけでも賞賛に値する。何よりブラッドリー・クーパー、レディー・ガガ双方の映画界においての今後の活躍と成功を予感させる劇場で観るべきパワフルな一作となっている。
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