耶馬英彦

ハイドリヒを撃て!「ナチの野獣」暗殺作戦の耶馬英彦のレビュー・感想・評価

3.5
 震える手で弾倉に一発ずつ弾を込める。訓練通りにすれば大丈夫だと自分に言い聞かせる。緊迫する場面で兵士はそうやって恐怖心を克服するのだ。
 第二次大戦を舞台にした映画は山のようにあるが、チェコスロバキアが舞台で暗殺作戦を描いた作品は珍しい。ハイドリヒ暗殺についての作品は、1971年の映画「抵抗のプラハ」までさかのぼる。

 テロで世界を変えられないと主張する人は多い。そういう人にとっては、戦争はテロではないのだろう。しかし武器を持たない一般人にとって、戦争もテロも人殺しという点では同じだ。どちらも大義名分のために武器で人を殺す。規模が違うだけである。
 他者や他国を憎み、差別し、排斥しようとするとテロや戦争になることは歴史が示している。しかし依然として世界はヘイトスピーチであふれかえっている。ヘイトスピーチをする人は戦争をする人だ。そういう人間が権力と武器を手にするとどうなるか。暗愚の宰相が務める極東の島国では、その方向に進みつつある。東京がプラハになる日は近いかもしれない。

 主人公の兵士たちにとっては、暗殺作戦はテロではなくて戦争である。理不尽に市民を虐殺するハイドリヒ。たとえ彼を殺しても次のハイドリヒが現われるだけだとシニカルな見方をすることもできる。しかしナチ中枢のハイドリヒが殺されることは、ナチの絶大な武力にも穴があることを露呈することになる。付け入る隙を世界に示すことになるのだ。ナチはそれが許せない。だから大規模な報復作戦に出る。現金を数えるように人の命を数え、市民の恐怖心を増大させようとする。武力による支配は恐怖心に訴える支配なのだ。
 武器を持たない無抵抗の市民はただ殺される。希望はない。しかし心の中までは武力で支配されることはない。武力に震え上がる恐怖心を克服し、心の自由を保ち続ける勇気だけが、理不尽な武力に対抗しうる人類の最後の手段である。
耶馬英彦

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