青山祐介

永遠と一日の青山祐介のレビュー・感想・評価

永遠と一日(1998年製作の映画)
4.8
『また見つかったよ! 何がさ? 永遠。太陽にとろける海さ。』
アルチュール・ランボー〈地獄の季節〉鈴村和成訳2011年

テオ・アンゲロプロス「永遠と一日」ギリシャ=フランス=イタリア映画 1998年

「死に直面して、私は何を経験するのだろうか?」「人生に終止符を打つことによって一切が完成するのだろうか?」その時に私は、過去と現在と未來にどのように向かい合うことができるのだろうか?…〈永遠〉は見つかったの?と少年の声が聞こえてくる。この映画は、〈永遠〉を捜し求める時間は、人の一生の中でも、その最後の一日だけであるのだと言っているように思える。この映画は〈永遠〉を見つける魂の旅の物語である。アンゲロプロスが詩人の「最後の行為はそれでもなお言葉を発する」のだというように、これはまた〈言葉〉の物語である。〈永遠〉と対話できる唯一の道具は〈言葉〉だけなのだから。
また少年の声が聞こえる…でも、見つけたものは〈過去〉の真実だけじゃないの? 「過去は単にあっただけでなく、もうないもの」なのだから…これはまた〈過去〉の物語である。言葉だけが「すべての過去を連れ戻す」ことができ、「そのすべてが真実になる」のだから。
しかし、これは〈現在〉の物語でもある。過去(記憶)は現在生きていることの原料であり、過去はその〈現在〉の内部から築きあげられるからである。また、これは〈未來〉の物語でもある。最後の一日とは〈未來〉に属しているのだから。そして、これは〈祈り〉の物語である。「〈祈り〉は本質的に未來に向けられ…〈祈り〉は一つの生きられる全面的内面化であり…〈祈り〉は私の存在の最も深いところから立ち昇る」からである。
『お別れだよ…』少年が涙を浮かべて言う。『それで、〈永遠〉は見つかったの?』…『明日の時の長さ』…それが〈永遠〉なの? でも〈永遠〉は、人生の最後の一日にならなければ体験のできない時間なのかもしれない。
私が乗る「魂=時間の乗り合いバス」には誰が乗ってくるのであろうか?私の傍らを自転車に乗った過去と現在と未來が通りすぎてゆく。通りの向こうでは、私の人生と同じ曲で誰かが応えてくれる。私は、独りなのであろうか? 常に余所者なのであろうか?ただ〈言葉〉が贈られるのを待っているだけなのだろうか?
「永遠と一日」はテオ・アンゲロプロス57歳の時の作品である。その後、波止場で別れた少年に言葉を贈られたのであろうか、「20世紀三部作」と呼ばれる、ギリシャの現代史を描く壮大な叙事詩の制作を始める。2004年には第1部「エレニの旅」が、2009年には第2部「エレニの帰郷」が発表されるが、第3部「もう一つの海」を完成することなく、2012年オートバイにはねられ命を落とした。〈歴史〉という、自転車ではなくオートバイの残酷さであったのだろうか。私たちは「太陽にとろける永遠の海」を見ることができなくなってしまった。 これは、霧の中の風景に〈永遠〉を見つけた男の悲劇なのである。
『永遠なるものの観念が、私のうちに湧出する…永遠は生成を乗り越える可能性を表現する唯一の形式であり…永遠は同時に無限をそのうちに含んでいる…有限であるとみえるすべてのものを、それが抱擁する…永遠は空間も時間も超えた領海を生きる…』
ユージェーヌ・ミンコフスキー〈生きられる時間〉1933年
青山祐介

青山祐介