Foufou

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアのFoufouのレビュー・感想・評価

2.8
ハネケの『ファニーゲーム』の、結局は同工異曲ではないかというのが率直な感想。

ただ、あちらには観客を共犯者として取り込もうとする極めて「政治的な」処刑人が登場するのに対して、こちらの断罪者が依拠するのは超自然。ハネケの殺戮者を悪魔の権化と見做すことも可能だが(超自然的なことが事実出来する)、階級闘争の先兵としての道義が一応は成り立つのに対して、本作は罪は罪ながら、その代償があまりに理不尽な点で、ヨブ記に通ずる神の不可知論が幅を利かせていると見える。そこにカタルシスは当然ない。迂闊に異教徒が、「わかるわぁ〜」とは口にし得ない罪と罰のありようが示されている。とまれ、登場人物たちがどのように自分たちの運命を内奥でとらえているか、明らかにされるのではない。「子どもはまた作ればいい」という合理的帰結が本気でなされているとは思われない。そうかと言って、医師夫婦が神に祈る場面はついに示されない。非キリスト教的な映画であるのは間違いないでしょう。

まじないの類とどこかで軽侮しつつ、運命を受け容れていく過程を説得的と見るかどうか。そこが作品評価の分かれ目かもしれない。

小生が少年なら、かくも父の死を重く受け止めるとも思われない。肉感的な母親を蔑みこそすれ。加害者の不幸を念じ続けるというのは、それはそれでしんどいことではないか。人の過ちを杓子定規に断罪するのも容易ではないはず。とすると、やはり本作の少年を、異形の者とする解釈を本作は許すのではないか。あのスパゲッティの食い方は、階級を表す以上に、非人間性の記号とも取れるのである。

少なくともバリー・コーガンの顔は、なんとも獣じみておりました。舞台は、これはオーストラリアでしょうか。でも、土着信仰の顕在化とも思われない。キリスト教以前の、欧州人の無意識の領域に関わることなのでしょうね。鹿ひとつとっても、彼らの持つコノテーションは計り知れない。つまり、欧州人にとっての、自然と人間の対立のありようの、archetype を描こうとした作品なのかもしれない。

要するに観念的なんです。だから、『ファニーゲーム』に似ているが、トラウマ度は限りなく低し。