茶一郎

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアの茶一郎のレビュー・感想・評価

4.5
 映画が始まるやいなや、スクリーン一杯に映されるのは動く生の心臓。観客を映画から無事に生きて帰す気があるのかと思うほどの不快で、嫌〜な感じ。本作『聖なる鹿殺し』は、ジワりジワリと醸成される危険な雰囲気一つで観客を2時間の上映時間に引きずりこむ嫌〜な映画でした。

 物語は非常に単純で、ニコール・キッドマン扮する美しい妻と二人の可愛い子供を家族に持つ心臓外科医スティーブンが、元患者の息子マーティンを家に招き入れた途端、家族の身に奇妙な事が起こるようになるというもの。そして物語が単純なら、物語内ルールも単純。マーティンがスティーブンに課したルールは、スティーブンが家族の命を一つ生贄に捧げない限り、家族全員に「1. 手足の麻痺」・「2. 食事の拒否」・「3. 目から出血」・「4. 死」が順番に起こるというもの。この途轍もなくシンプルな枠組みの中での不条理な悲喜劇が本作『聖なる鹿殺し』であり、その怪しい物語内ルールを監督であるギリシャの鬼才ヨルゴス・ランティモスの名前から取り、「ランティモスルール」と名付けたいです。
 というのもランティモス作品(ごめんなさい。『Alps』は未見です)には、共通して理不尽なルール=「ランティモスルール」が登場するからです。『籠の中の乙女』は「犬歯が生えない限り家の外に出られない」というルール。『ロブスター』は「独身者は動物に変えられる」というルール。全てが登場人物たちに対し一方的にランティモスルールを押し付け、そこから生まれるドタバタコメディを静かに、かつ淡々と捉えた作品でした。
 本作『聖なる鹿殺し』は、『テオレマ』、『家族ゲーム』、深田晃司作品に通ずる、いわゆる「闖入者モノ」である以上に、劇中で明確に提示されるランティモスルールが本作を「ヨルゴス・ランティモス作品」としか言えない独特の魅力あるものにしています。

 何より、いかに悲惨な状況になろうとランティモス監督が本作(特に前半)をコメディとして撮っている事に監督らしさを感じます。
 しばしば「笑いは『緊張の緩和』」と言われることがありますが、本作におけるコメディ要素はその言葉通りのもの。怪しすぎる劇伴を背景に、急に「脇毛を見せて」とスティーブンにお願いするマーティン、息子に自分の自慰行為の体験談を語るスティーブン、夫婦間における性行為始まりの特殊な合図、マーティンのパスタの食べ方……と、劇場こそ誰も笑ってはいませんでしたが、私にはこの笑いが松本人志氏の笑い(『VISUALBUM』の『寿司』的と言えば誰かに伝わるはず)と重なって見えました。
 そして喜劇からジンワりと悲劇に。最後には『ミスト』のラストシーンが裸足で逃げるような残酷で、滑稽な悲劇に辿り着きます。本作『聖なる鹿殺し』は、2017年で最も笑える悲劇だと思いました。
茶一郎

茶一郎