rage30

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアのrage30のネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

前半は奇妙な少年に追い回されるストーカーもの…といった感じだが、後半からは『イット・フォローズ』の様な“見えない呪い”の話へと展開していく。

「家族の中から誰か1人を殺さなければならない」という究極の選択を迫られる物語は、やっぱり惹き付けられるものがあるし、「自分だったらどうするか?」という視点で考えても楽しめるだろう。
本作がユニークなのは決断を下す父親の葛藤だけでなく、決断を下される側の家族の苦悩を描いている部分。
母親や子供達が生き残る為に父親に媚びていく様子は、切実であると同時にどこか滑稽でもあった。
「母親なら子供を守れよ!」と思わなくもないが、それは「母親はこうあるべし」という偏見と願望に過ぎないのかもしれないし、情報を得る為には手コキも辞さない女性であれば、あれくらい利己的でも不思議ではない。

本作は父親の究極の選択を描いた作品だが、その一方でマーティン側の視点で考えると、本作は復讐についての作品でもある。
もしも愛する家族が誰かに殺されたとして、殺した犯人を殺す事が果たして正当な復讐になるのだろうか?
愛する家族が失われる悲しみ…それを犯人が味わってこそ、真の復讐になるのではないか?
本作はそういった復讐という行為の公平さについても考えさせる。
マーティンはやられた分を“正しく”やり返してるだけに過ぎない。
だから、マーティンは失った父親の代わりになる事をスティーブンに求めたのだろうし、母親の求愛を拒んだ様にキムの求愛を拒み、スティーブンと自分の腕の両方に噛み付いたのだろう。

この様に、本作は様々な解釈が可能であるが、私としては父権主義的な家族を象徴している様に思えた。
長髪で音楽好きのボブを嫌うスティーブン、父親と同じパスタの食べ方に拘るマーティン、やたら脇毛や精液の量を気にする男達…。
そこからは、男らしさや父親に対する執着が伺える。
極めつけは、父親に媚びる家族の姿だ。
この映画では命が懸かっていたとはいえ、あのシーンは常に父親の機嫌を伺う様な、父権主義的な家族のあり方を戯画的に描いている様に思えた。
そういう意味では、スティーブンの葛藤は父親として家族を支える事の重圧を表していた様に思うし、犠牲になるのがボブだったのも何か意味がある様に思えてくる。

本作には物語を最低限理解するだけのロジックが用意されてるが、同時に理解不能な余白となる部分も存在する。
マーティンに何故あんな能力があるのか?そもそも彼は実在してたのか?アナには何故症状が出なかったのか?ボブを殺した後どうしたのか?…などなど。
だからこそ、観る人によって様々な解釈が可能だし、議論をするのが楽しい作品でもある。
「この映画を見て、どう思うのか?」…我々もまたマーティンに試されているのかもしれない。
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