Kou

聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディアのKouのレビュー・感想・評価

4.0
ギリシャの奇才、ヨルゴス監督は
『ロブスター』で虜になって以来密かにファン。
なので『ロブスター』に続いて
すぐ鑑賞したんだけど、レビューまでに
3ヶ月もかかってしまった…😱
というのも本作、すごい難しい。
色々な解釈があるというか。
なので罫線部の上と下で分けて書いてます。


(罫線部上はいつも通り、作風や魅力、
面白かったところなどを書いてます。
罫線部下は、最終的な考察ですが、
たぶん上手く説明できてないと思うので
読めるとこだけ読んでいただけたら幸いです💦)


まず、観る上でキーとなってくるのは
『アウリスのイピゲネイア』
古代ギリシア悲劇のひとつで、劇中でも、
娘キムが学校の課題で取り組んでいた
という描写がありましたね。
ストーリーも現代版イピゲネイアっぽいですし。
これを、人間の業・醜さと組み合わせたのが
めちゃくちゃ斬新で面白い❗️


つまり今回のテーマは、
神と対比することによって浮き彫りになった
(人間の罪深さ)と(報復)なわけです。


まず、その神とやらですが
(目に見えない超自然的なナニカ)
直接的に表現するのではなく、カメラワークと
4つの呪いだけで表現しきっているのが面白い。

例えば、息子のボブが歩けなくなるシーンでは、
普通は驚く息子や焦る母にキャプチャ
するところを、はるか上の視点から、
まるで昆虫でもみるかのように
冷たい俯瞰で見下ろしています。
(キューブリック監督作の『シャイニング』の
三輪車のシーンなんか非常に近いよね)


また、4つの呪いである
1.手足の麻痺 2. 食事の拒否
3.目から出血 4. 死
の1と3からも暗示していて、
初期症状である“手足の麻痺”は「立てなくなる」
ことによって、いわゆる「頭が高い」という状態の
反対になり、ナニカに頭(こうべ)を垂れている
という構図を生み出しているし🙇‍♂️
3の“目から出血”は、聖母マリア像の血の涙や
「神様は見てはいけない」と想起させていたりと
表現の仕方が恐ろしく目新しい。


極め付けは、猟銃ロシアンルーレット。
テーマにもあった、人間の浅ましさ、
罪を負いたくないという(罪深さ)
が見事に表現できていますよね。
妻、長女、長男の手足を縛って拘束し、
しばらく回ったところで当てずっぽうに
引き金を引くという衝撃のシーン。
ドン引きしすぎて引き笑いでした。


かと言って、同情の気持ちが1㎜たりとも
わかないように作られているのがこれまた怖くて。
どんなことがあっても一度も謝らない父に
「(殺しても)また子供をつくればいい」
と全身麻酔プレイに励む妻。
心にもない自己犠牲で自らの美徳を誇る娘に、
父の嫌いな長髪を切って従順な犬と化す息子。

命の危機を前にあぶり出される(人間の利己性)
を描いているんだろうけど、
これは笑っていいのかいけないのか…。


ナニカと一緒に俯瞰で見下ろす異様さや、
人間と神の対比させる設定など、
めちゃくちゃ斬新で見応えある作品なので、
まだの人はぜひ観てみて下さい!😁
とはいえ、万人向けではないので、
↓の予告を観て「面白そう❗️」と
思える人だけチャレンジしてくださいね!
トラウマになっちゃうかもしれないので。
(https://m.youtube.com/watch?v=KIbzpjS4GaQ)
「愛を放つの 消されないように」
って歌詞こっわ😱そういうことだったね…。

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ここからはお時間ある方だけどうぞ❗️

自分が最終的に思ったのは
1.現代版イピゲネイアではない
2.『ロブスター』や『女王陛下のお気に入り』で
あったような皮肉めいた風刺がない
3.監督のインタビューや発言
の3点から、サスペンス・ホラー要素を多分に
はらんではいるものの、多元的な見方をすると
(コメディー)なんじゃないかっていうこと。



監督は本作に対しこう述べてます。
「脚本を書いている時にギリシャ悲劇と
似ている部分があることには気がついた。
でも、ギリシャ悲劇を映画化しようとして
始めたわけじゃないんだ。」
監督はもともと現代版イピゲネイアを
否定していたわけですね。

次に、本作をギリシャ悲劇と比較してみると
アガメムノンはスティーブン
その妻クリュタイムネーストラーはアナ
娘イピゲネイアはキム
女神アルテミスはマーティン
そして、犠牲となった聖なる鹿はボブ
となるんですけど、そうすると
一つ「❓」な部分があるんですよね。

それは娘。
イピゲネイアは父を助けたいという
純粋無垢な気持ちから自ら生贄となりました。
しかしキムは、彼女の悲劇を知っている状態で、
同じように生贄になろうとすることで、
自らの純粋さをアピールしました。
しかし、これは純粋のまさに逆。
「こう言えば父は自分を殺さない」
という不純で醜い動機からの行動なわけでです。
よって、彼女はどう考えても純粋無垢な
イピゲネイアにはなりえないのです。



例えば『ロブスター』では、
不条理な世界で浮き彫りになった
現代人の“恋愛への消極化”や
他人と“同じ”であることを
皮肉にしていましたよね。

また『女王陛下のお気に入り』では
歴史的事実を基に、権力者を戯画化することで
くだらない理由や欲望で国をかき乱す
支配層の人間を身近に感じさせ
「こういうことは現代でも起こっている」
という皮肉を含ませています。

しかし本作には、他2作にあった
現代社会への風刺があまり感じられなかった。
本作のテーマである(正義)と(報復)も
結局は主人公の自業自得である以上、
皮肉めいてはいなかった。
つまり、メッセージ性は低いわけです。



監督は本作についてこう述べてます。
「観た人が不快に感じる映画にすることで
興味をそそらせ、考えさせたかった」と。
つまり監督は、映画を観た後に
色々と考えを巡らせるような、解釈できるような
思わせぶりな映画が撮りたかったわけです。
その観点からいえば、②のメッセージ性の低さや
①のギリシャ悲劇っぽく見せて実はそうではない
という理由としても納得がいきますよね。

また、本作がコメディ映画だというのは
ヨルゴス監督本人が言ってまして。
(↓カンヌ国際映画祭でのニコールのコメント
「監督は“これはコメディ”だ!と主張するけど、
みんな現場では…という感じで」
「この映画を“コメディ”として
どう演じたらいいか全くわからない」)


つまり、監督目線ではコメディなんです。
意味なさげなものを意味ありげに見せて
(パスタ、ポテト、カメラワーク
解決しない超自然現象、ギリシャ神話などを
ごっちゃにすることであえて複雑にし)
それを観客が「あーでもない、こーでもない」と
深読みしてくれるわけですから。
だから、面白い、笑える、コメディ。


そんな、ヨルゴス監督の意地の悪い
実験的変態ムービーだと自分は思ったので、
サスペンスやホラーではなく
(サスペンスやホラーでもありますけど💦)
コメディーに位置付けたわけです。


(おまけ)
改めて見直したけどなっっっっっっが❗️
自己最長記録だ絶対。こんな一面は、
filmarkerにしか見せれません。よそでは
こんな発作(映画を長々語りたくなる
病気みたいなもの。自分はそう呼んでる)
を出さないようにしないと…。
とはいえ、filmarksに登録してる人は
大抵自分と同じで発作持ちだろうから
勝手に親近感いただいてますけどね😁



2019年9月 50本目
Kou

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