レインウォッチャー

僕のワンダフル・ライフのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

僕のワンダフル・ライフ(2017年製作の映画)
2.0
「てめーはおれを怒らせた」。

愛犬家の方々を中心に山ほどの感動した・泣いたとの声がきこえてくる今作。そんな中とても肩身が狭くはあるのだけれど、わたしにはむしろ「許しがたい」くらいの思いを禁じ得ない作品だった。

====<<KEEP OUT>>====

もちろん、この映画が好き!という方の気持ちも、反応としては理解できるつもりだ。
主演の芸達者わんちゃんベイリーはそりゃあどのシーンも可愛いし、そんな愛犬が、亡くなってもなお飼い主に(=自分に)会いにきてくれる。
犬に限らず何か生き物と暮らしたことがあって、あるいは悲しいお別れを経験したことがある人ならば、一度はそんな奇跡を願ったことがあるだろう。(わたしも例外ではない)

それ自体は良いと思う。
願うだけなら。

今作は、そんなヒトのワガママを最悪に近い形で叶えてしまっていると思う。
この「最悪」には幾つかの要素があるけれど、何よりは犬に対して都合が良い人格を当てはめていることに尽きる。

ベイリーには所謂アテレコがついていて、台詞を喋らせている。この時点でわたしは多少の拒否反応があるのだけれど、そこは筋を伝えやすくする工夫ということで譲ったとして、そのトーンが輪をかけてひどい。
人間の物差しで幼稚な・精神年齢の低い・言葉を選ばずに言えば「アホっぽく」思える言動をさせているのだ。

そして更に、そんなベイリーは何度生まれ変わっても、その生をかなぐり捨ててまで最初の飼い主(主人公)の元に帰ろうとするというではないか。まるでその選択が、ベイリー自身にとって他の何よりも幸せであるかのように。

この映画を肯定する愛犬家の方々にあらためて真摯にきいてみたい、本当にこんなことを愛する犬に望むのですか?と…

犬猫のように人間と距離感が近い動物相手だとつい誤解してしまうけれど、あくまで彼らはわたしたちとは違う種類の生き物。「いぬのきもち」なんて雑誌があるけれど、彼らの本当の気持ちなんて一生わからない。

わからない、というのは少し正確ではないかもしれない。そもそも生きる尺度が異なるのだから、同じ言語に翻訳できない、という感じのことを言いたい。
確かに、犬は並外れて共感力が高く、飼い主を観察して感情を同期することができるらしい、という研究もある。しかしそれもあくまで「現象」としての結果であって、犬が何をどのように考えて生きているのかをヒトが全く同じ感覚で共有することは不可能だ。

もちろん、動物に人間的な感情を投影して「これは好意的っぽいな」「嫌がってそうだな」と期待して試行錯誤し、接することには何の間違いもないだろう。というか人間側にはそれしか術がないので、ペットと幸せに暮らすには必須の考え方だと思う。

ただ、目的は人間の尺度に合わさせること、ではない。決定的に「違う」にも関わらず、何らかの相互利益と少しの縁があって、努力を重ねて一緒に居ることこそが奇跡的で、尊いのではないだろうか。

そこを、この映画はヒトにとって限りなく奉仕的な性格を動物側に強要しているのだ。「だって犬は人間の親友なんだから、人間と暮らすのが一番の幸せなのは当然じゃん」とでも言うように。
しかもその無理やり翻訳された人格は、上記の通り人間的な感覚で幼く設定されている。作り手が、動物を無意識のうちに「下に」見て安心していることがわかる。

このイズムは本当に危うく、対動物に限らず対他の人間にも当てはまる。
自らの理解を超えた文化や背景をもつ他者に対して自分本位の尺度を強制することは、これまで人間が数多起こしてきた諍いの火種で最もベタなものだ。そうね、たとえば…ナチスとか?

だから、この映画は是非家族みんなで観たい、といったコメントも多く見られるが、わたしは、特に子供には決して観せたくない。
観せるとすればそれはむしろ反面教師的な意味で、こんな飼い主にならないで、と言い含めるためだろうと思う。

最後にひとつ種を明かすと、こんな明らかにファミリー向けに作られた作品にわざわざ揚げ足をとって噛みついたのにも理由がある。
劇中で一度ならず繰り返される、物語上まったく必要性のない「猫ディス」である。

もちろんこれがタランティーノあたりの悪ノリ映画の一環なら笑えるが、「ペットで感動もの」の皮を被っているところがヤバイし、天然でやってるなら救いようがない。選民思想に近いものすら感じるところだ。

こっちだって、こんな猫派に対する宣戦布告さえなければ何もここまでギャースカ喚くつもりなどなかった。なのに、「オッケーそっちがその気ならそこになおりやがれ」と腕をまくった次第…である。