ま2だ

荒野にてのま2だのレビュー・感想・評価

荒野にて(2017年製作の映画)
4.4
荒野にて、鑑賞。

映画のことを考える際に、タイトルを理解の足がかりにすることが多い。命名こそ、作品に対する最初の批評行為であるという観点からだ。本編の無難な要約にとどまらない優れたタイトルは、その命名プロセス、すなわち批評の源流へと至る水辺まで観る者を誘ってくれる。

本作の原題は"Lean On Pete"。主人公の少年が愛情を注ぐ老いた競走馬の名前だ。鑑賞後に振り返ってみれば、この作品に馬の名が冠されていることには特別な感慨がある。そして邦題「荒野にて」も同様に素晴らしいことに気付かされるだろう。

2つのタイトルはこの映画の本質に対する深い理解という点で一致している。それは、誰かにとってある種の出来事は、過ぎ去ってなお、過ぎ去ったからこそ、強固に影響を持ち続けるという事。

フレームインしているものと、フレームアウトしているもの、この2つを通して我々の他者に対するまなざし/想像力をストレッチしてくれる映画だ。

主人公の少年チャーリーは、自分の生活が危ういバランスで保たれていることを知っている。そして同じように、怪我や老いで走れなくなったら容赦なくメキシコに売り飛ばされてしまう競走馬に、自らの境遇を重ね心を寄せる。

そんな両者に訪れた平穏の終焉を機に、彼らの旅が始まる。

ここではひとりの少年が、社会のセーフティネットからこぼれ落ちていく過程が描かれていくのだが、興味深いのは、こぼれ落ちた者がなぜ這い上がろうとしないのか?それを阻むものが何なのか?も同時に描かれていることだ。

我々はなぜチャーリーが施設に入ることを頑なに拒み、逃避し続けるのかを問うだろう。差し伸べる手を拒むのであればそれは自己責任、好きでやっている転落ではないか、と。

荒野においてチャーリー自身の口から語られるように、その理由とは「誇り」と「羞恥」である。彼は生まれながらに貧しく追い詰められた存在ではない。幸せだった時代の記憶がノスタルジックに彼の行動を縛っている。

その日の暮らしにも困窮し、犯罪に手を染めるようになった現在に誇りは持てなくとも、過去の幸せに対する誇りは消えない。こんな姿を楽しかった時代の知り合いに見せたくない。だから友人に電話をしなかったんだ。僕は今でも幸せにやっていると思っていてほしいから。チャーリーは馬にそう語りかけ、さらなる荒野へと踏み込んでいく。

チャーリーをとりまく大人たち、父親や調教師、先輩ホームレスもまた、貧困ドラマにありがちなテンプレ善人/悪人ではなく、光と影、過去の栄光と現在の凋落が折り畳まれた重層的な人物像を持っている。彼らもまた誇りを抱えたまま、抱えているからこそ、静かに転落し続ける存在なのだ。

そう考えると、荒野で起こった出来事はチャーリーの行く末の可能性のメタファーであり、表層的にも深層的にもその後の彼の行動に変化を及ぼしている。チャーリーの目的は出来事の前後で表面的には変わらず一貫している。そこに向かう心情の変化の繊細な描写に胸が詰まる。

過去と現在と未来をつなげるシーンとしてチャーリーが街をジョギングするシーンがある。彼が街を走るラストシーンにR.kellyの"World's Greatest"のカバーが流れた時、ああやはりこれは誇り、尊厳についての物語なのだと泣けて仕方がなかった。I am a mountain, I am a tall tree, I am a......。

チャーリーを演じたチャーリー・プラマーは演じすぎない自然な佇まいが眩しく素晴らしい。脇を固めるスティーブ・ブシェミもいいが、クロエ・セヴィニーが特に良かった。

余談になるが、貧困映画ジャンルにおけるゲップエピソードの鉄板ぷりを本作でも再確認した。
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