かじられる

あゝ、荒野 前篇のかじられるのレビュー・感想・評価

あゝ、荒野 前篇(2017年製作の映画)
4.5
<私的邦画三部作 破>

空を切るはずの拳は確実に獲物をヒットしていた。それは宴の後と言うべき2021年の東京では奇跡と呼ぶに相応しかった。

国の施政によって個々のエロス(生の衝動)は混迷を極め、タナトス(死の衝動)と睦まじく踊る。死は観念となり、その無機質さに耐えられず、露悪的な「サイケデリックな死の演出」(ボードリヤール)にはけ口を見出すも、ネット社会では情報の断片として演算処理されていく。相互監視(パノプティコン)のもと、安心安全のためだったモラルはその息苦しさに窒息する。

窃視も暴行も孤独が吐き出す膿に過ぎない。その隙間をセックスの「ニルヴァーナ原則」が強度に支配する。寂滅。草の根もないただの荒野。

新次(菅田将暉)、建二(ヤン・イクチュン)、ヨシコ(木下あかり)の飢餓感も黄金時代のそれに過ぎない。母と子がひとつであった記憶。胎内回帰。社会が合理化するほど、退行していく日陰の聖母子像。

それが希望かどうかは知らない。ただ相手を殴ることで、自らの過去も怒りも相殺していく。打ちのめしたのは憎むべき己の負だ。

「殺してやるからなあああ!」十全たるエロスが発揮される時こそ命は最も輝く。勝利したのは青臭い哲学ではなく、物言わぬ肉体だ。殴るべき目標も方法も分からない時代に新次の狂犬のような叫びが落涙を誘う。

「あゝ」なんて感嘆詞、ひとつでいい。
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