140字プロレス鶴見辰吾ジラ

スプリットの140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

スプリット(2017年製作の映画)
4.2
”夜明け”

先に話しておきますが、ラストカットの高揚感は年間ベスト級と言っても過言ではない・・・過言ではないでしょう。

前作「ヴィジット」にて、シャマラン監督の復活に歓喜の声を上げていましたが、冷静な気持ちになれば本当に復活なのか?とまだ疑心暗鬼でした。そして今作「スプリット」を鑑賞後、シャマランは「ヴィジット」において帰路に着いていて、「スプリット」にて彼のイデアの館に帰ってきたのだと感じました。

”幸福論”とは何か?
”等価交換”とは何か?
そして目の前にある想いは”幸福の等価交換”ではないか?

マーケティング上、多重人格のサイコ野郎vs3人の女子高生という単純な構図を想起させ、昨今の映画ならば、ダン・トランデスバーグ監督の「10クローバーフィールド・レーン」の脱出に向けての駆け引き、フェデ・アルバレス監督の「ドント・ブリーズ」の敵の迷宮から逃げられない絶望感を真っ先に感じ取ってしまいます。しかしあくまで多重人格の主人公の設定の向こう側にあるものを主軸に囚われの身となった3人の女子高生はあくまで添え物で、ゲームのコマにすぎませんでした。しかしその女子高生の内の1人は違います。今作のヒロインです。彼女は唯一、今作の”幸福の等価交換”においての選ばれし者であり、語り継ぐための継承者に近い存在かもしれません。主人公の過去はカウンセラーとの会話の中でしか語ることを許されていませんが、ヒロインのターンでは彼女の回想シーンが入ります。それは「アメリカン・スナイパー」を想起させるような狩りというシチュエーションにおいて父と娘の関係性と生い立ちを語る回想です。この回想に意味はあるのか?雑なカットインがゆえの分かりにくさに不安要素が湧き上がってくるのですが、実はこの回想が彼女が”選ばれし者”であることを証明するためのものであったことが発覚していきます。

主人公を演じるジェームズ・マカヴォイを23変化とまではいきませんが、多重人格の役を演じるにあたっての奇妙さ・奇怪さ・居心地の悪さは素晴らしいです。マカヴォイ自体、イケメンとしての要素、ニヤついた笑顔のサイコ感、そして適度なヘタレ感、そしてふとする気持ち悪さ的確に多重人格の男の悲愴さを纏っていたのは圧巻です。

多重人格においてそれが効果的に出るところは正直多くないです。あくまで女子高校生の脱出ゲームにおいての駆け引き要素に他なりません。スリリングが生む熱量において、”選ばれし”女子高校生のみその世界と対等に戦えるすべを持っていて、他2人は添え物としての意義を全うしています。セクションを経て存在が明らかになっていく24人格目の”ビースト”。多重人格者のラスボス的人格が生まれたら?というそこに危機感の焦点をおくわけでなく、シャマラン監督はこの”ビースト”に彼の想いをぶつけていきます。カウンセラーが中盤で話す、多重人格障害の患者が変化することで生じる”能力”への憧れと可能性。”ビースト”の設定が明らかになっていくなかで想起されるのはシャマランのフィルモグラフィの中で「アンブレイカブル」の主人公に他ならないと感じた瞬間に、今作が”夜明け”を生み出そうとするという圧倒的に滑稽で真面目な物語であることを確信しました。”幸福の等価交換”であり”強くなる理由”であり、”生き続けることの意味と代償と対価”が意味をもって作品のクライマックスを彩っていくことに心が震えて仕方なかったです。主人公とヒロインのクライマックスの対峙シーンは、ポスターに書かれた3人vs23人という愚かな宣伝文句を除去していくように、そして主人公のその後のあらゆる可能性に期待と憧れを抱きながら、ヒロインのエンディング後の世界を憂いながら、ラストシーンの真なる衝撃を迎えたあの心の震え方は筆舌尽くしがたいわけなのです。最大の多幸感の後に訪れる分裂したエンドロールの気持ち悪さも含め、イデアの館に戻ったシャマランの物語論者ろしての逆襲を楽しみに私は待つことを幸福に思います。