純

映画 夜空はいつでも最高密度の青色だの純のレビュー・感想・評価

4.0
東京が眠らない街なんて嘘だった。確かにあちこちが光ってはいるけれど、街はきちんと静寂の傍にいて、目を閉じている。動いて、音を鳴らして、瞬きを繰り返して、生きているのは私たちだ。

大好きな最果タヒさんの、とっておきの、特別な詩集が映画化されると知ったときは、驚き、不安、大量の疑問に囲まれたのを覚えている。詩集が映画化。あまりに未知の世界だった。だけど、未知だからこそ正解も間違いもない。詩集を読んで出会った感情や記憶がこの映画で蘇るなら、そのひとの瞳には最高密度の青色が映っている。

この作品で描かれる東京は、ひどく物寂しく排他的で、何もかもが身の程知らずの速度ですれ違っていた。街中にそびえるネオンの眩しさになんて目もくれず、誰もが俯いて、小さな長方形から漏れる目に悪い光を吸収している、空間。綺麗な酸素が、溢れかえる人々の肺や呼吸器官によって濁った空気として吐き出されて、あんな場所にいたら、さぞ、息苦しいだろう。美香はそんな世界や人間を軽蔑していて、彼らを軽蔑する自分自身を、多分1番軽蔑している。昼は看護婦。夜はガールズバーの店員。生にも恋愛にも縋りたくないのに孤独が怖くて、ぶっきらぼうでみっともない女の子。

工事現場で働く慎二は、色と光が半分閉ざされた世界で、100%の音を聴いて鳴らして生きている。だから、自分もとことん喋るか、とことん無音になるかしかない。慎二には、世界と一体化する方法が声しかないから。見えない半分を補うためには、音や声を150%にまでして張り上げるか研ぎ澄ますかしないと、不安なんだろう。彼の生活に余裕はない。薄汚れた部屋で薄汚れたTシャツを着て、毎日同じようなことの繰り返し。誰からも相手にされない毎日の中で、不平等に割り振られているかのように降りかかる死死死死死死死。

全然当たり前じゃないことを普通に受け入れる他人だって十分に変なのに、変な奴だと、社会不適応者だと、駄目な人間だと、思われるふたり。孤独なふたり。孤独は、ひとりでもふたりでも変わらない。誰かと一緒に何かを分け合うだけで消えてしまう虚無感や絶望感なんて、孤独じゃない。家族がいるひともいないひとも、恋人がいるひともいないひとも、友達がいるひともいないひとも、全員孤独な青色をきちんと大事にできている。失くしていない。だから、昼間は太陽の光で見えない人々の孤独が、夜は太陽の光を反射する月と一緒に、空に散らばって広がっていく。だから、夜空はいつでも最高密度の青色をしている。

この映画は、ストーリー展開に特別なひねりがあるわけでもないし、予想以上に詩の引用は少ない。わかりにくいし、まとまってないし、差別的だし、不恰好だ。だから、あの詩集の世界は確かにあって、なのに別の世界もあって、それは、文字や音だけでは感じ取れなかったものが、監督さんや役者さんを通して表現されているからだ。説明しなくても、わからなくても、すとんと腑に落ちる何かをこの映画は感じさせる。誰の映画でもないようで、私たち全員の映画になっている気持ち悪さを、愛したい。

美香は恋する人間は平凡だとか馬鹿だとか言うけど、じゃあ恋をする前なら、ひとは皆もっと高等な生き物だったのかな。そんなお偉くて、貴重で、大切に大切に保存しないといけないような、つまらない命なら、私はいらない。待ってられないし、嫌だから。今しかないのに、非凡で希少な命でいる暇なんかないんだよ。今に全力で向き合って、恋愛に限らず、世界とか人生とか、何でも良いから、何かに恋い焦がれて生きていたい。確かに何かを恋い慕えば裏切りだとか別れだとかも経験するし、そういう傷つき合戦を繰り返すのは間抜けかもしれない。でも、どうせ元から私たちは平凡だし、馬鹿だし、みっともない。恋さえしなければ自分は非凡だって、そう思ってる時点で平凡だ。胸張って、ざまあみやがれって言って、泥だらけになって最高速度で今を駆け抜けてやりたいよ。

恋愛映画じゃない。青春映画。君の代わりなんていないって嘘はつけないけど、君の代わりなんていくらでもいて、でもどんな代わりでも嫌だって真実は言えるようになる。そんな映画なのかなと思った。出会ったのが運命だろうがそうじゃなかろうが実はどうでも良い。だってどうせ出会っても出会わなくても一生孤独だし、何とかやっていけるし。でもせっかくこうやって鉢合わせたんだし、ついでに夜空でも見上げるかって言って、一緒に青色に吸い込まれてもいい誰かを思い浮かべてしまえたら、きっと最高だね。

東京で観られて、良かった。
純