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ANTIPORNO アンチポルノのeyeのレビュー・感想・評価

ANTIPORNO アンチポルノ(2016年製作の映画)
3.7
"アンチポルノ" (2017)

園子温 監督 節全開な作品

フィクションからノンフィクション
映し出される光景 そのものがリアル

絵画で例えるなら
明らかに抽象画のような作風

全編を通して 舞台喜劇の表現をしてる

観てるものを一様に巻き込みながらも
感覚は圧倒的に置いてけぼりにされていく

この感覚こそ園子温監督の真骨頂というべきか

京子というカリスマ小説家の破天荒な
行動・言動を観客はフィクションとして観てる

一方で 京子は "演じている(演じられている)"

アナーキーな面・シニカルな面を
他者にぶつけつつ 妹の幻影にも追われている

映画は色彩感覚にも訴えかけていて
観衆をより遠くのどこかに連れていく

ハッキリとした壁面の赤や黄色

に加えて

衣装のオレンジ

ベッドの青

下着のピンク

など極彩色な構造の中でシーンは描かれる

その反面 部屋の中で演じているはずなのに
体育館のようなステージが映し出される

更に現実や虚構を曖昧にしていく

David lynch 監督の"INLAND EMPIRE" /06
の中でRabbitsの喜劇が描かれるが 

曖昧になっていく雰囲気自体が
どことなく同じ匂いを感じさせる

京子のマネージャーである典子は
京子を管理する立場であるけれど

"メタフィクション" であるため

本来決められている役割から
徐々に大きく逸脱していく

カットの合図がかかった後の
パワーバランスは全く逆転し崩壊している

2人の関係性は "主と従"

京子=サディズム
京子のマネージャー典子=マゾヒズム

両者の関係性は突然入れ替わり
立場すらも逆転し 京子は追い詰められていく

京子が現実と虚構の中で病んでいき 劇中で述べる

>これは私の人生じゃない!

とても印象的なセリフでもある

キャッチコピーにもあるように

>処女なのに売女
>自由なのに奴隷
>憂鬱すぎる日曜日

にも同じように表裏表現されている

女性自身がペニスバンドを付けて男性自身に
成り代る立場逆転も劇中では見られる

ほぼ女性の登場人物なのに"性器"を通じて
男性を描くことも この映画の面白味といえる

園監督自身も

>日本人はみんな女性

と表現してる

消費される "偶像" として

あるいは

"商品" として

一方で アイドルやAVに対する
一種アンチテーゼとも受け取れる

人気作家の京子は 恐れる者のない有頂天

だけれど それは "フィクション" 

だからこそ京子の言動について
ダメ出しをする"映画監督"も実在する

映画監督はあたかも"自我"を検閲するような
"超自我"としての役割を担っている

フィクションとリアルの境を取り払って

"妄想が現実"

そして

"現実が妄想"

に成り代る

この映画は混沌とした状況に
出口を見つけられない京子の心情が吐露される

劇中でも京子は

>"独り"と"独り立ち"は全然違うわよ!

と述べている

京子という1人の人間の人生が描かれている

"女性とは・男性とは" 

という 根本的な問いに対する答えは
観ている人に委ねられてしまう

Christopher Nolan 監督が
"Inception" / 10 で描いたように

個人の中には無意識下のいくつかの
意識の階層(回想)がレイヤーになっていて

そこに園監督の根底の怒りの衝動も描かれている

監督自身の怒りは劇中部屋にある
TVにハッキリして映し出されている

某映画レビューサイトで "アンチポルノ"について

"これじゃ勃たない" 

と誰かが表現していた(おそらく男性)

そもそも男のペニスを

"勃たせる"

そのために女優さんたちは脱いでるわけじゃなく
そのための役を演じてるわけでもない

ましてやこの作品はAVでもなく

"アンチポルノ" だから

そういう考え自体がブーメランになって
頭に刺さっていることに気付けない辺り

脳が侵食されていると言わざるをえない
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