ニトー

アンダー・ハー・マウスのニトーのネタバレレビュー・内容・結末

アンダー・ハー・マウス(2016年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

うーん、なんというか「1に感情2に感情、3・4がなくて5に感情」という作りの映画になっていて、人物に感情移入できないとわたくしみたいに終始映画そのものや同性愛の分析に没頭することになるかも。

ぶっちゃけ、恋愛はわたくしの人生の中でほとんど重要視されている要素ではない(少なくとも今は)ので、今回みたいな恋愛映画って実はそんなに興味があるわけじゃなかったりする。「愛」ならともかく「恋」は正直、それだけを延々と見せられるのは結構キツいんだけど、この映画はまさにそれでした(笑)。突き抜けるぐらいの純粋さとかどろどろさとか、そういうのがあればまだしも、正直なところ監督の意図とは裏腹に「アンダー・ハー・マウス」はかなりクリシェ的な映画になってしまっていると思う。なんでそうなってしまったのか、っていうのは、まあ無知なパンピーの当て推量で言わせてもらえば「ジェンダーレス」という部分に監督自身がとらわれすぎてしまったがためなんじゃないかなーと。おそらく、スタッフが全員女性というのも、原因だと思うんですよね。マイク・ミルズ監督の「20th century women」があれだけの完成度を誇っていたのを思うと。あっちは同性愛を描いた作品ではないんですけど、人物を定型化せず生きた人間として描いていたのと、女性がメインということで引き合いには出してみました。
つって、わたくし自身はヘテロで「趣味:映画観賞」な一般人ですので、同性愛者の方々、とりわけレズビアンの方々がこれを観たらまた違う感想になってくるのやもしれません。

少女コミックとかラノベ・横文字っぽい系の小説をベースにした恋愛映画は好みではないのですが、この映画は結構そっちに寄っている気がする。かといって、ああいうのみたいに「ABCのAまで」で終わるような内容でもなく(これ18禁だし)、普通に生々しい部分を見せる、というかほとんどベッドシーン。レディコミック的と言えばいいのでしょうか。ちょうど、前述したシネコン恋愛映画とレディコミックの中間のバランスの映画だと思う、内容的には。レディコミック的な殺伐とした空気や生々しさもあるんだけど、それは実のところ表面的な部分だけであって、一方ではコテコテの恋愛を捨てきれずにいる。ぶっちゃけ青い。


エリカ・リンダーはたしかにかっこいいしスタイルも抜群で腹筋割れていて「いいなー」と思ったんですけど、彼女が演じるダラスは正直魅力的とは言い難い。だって、彼女自分では「もっと複雑」とはいいますけれど、描かれ方は紋切り型もいいところでしょう。やってることと言えば大工仕事(なんかすごい抽象的)かバーでひっかけるかセックスしてるか、それらだけで彼女の個人性というものがまったくもって立ち現れてこないんですもの。相対的にマイノリティなセクシャリティを主題にするのであれば、必然的に個人性が表出しなければならないと思うのですが、本作には登場人物の個人性というものがない。彼女自身の口から親に対する恨み言のようなものは語られますが、それが彼女の現在の生き方にどう関係しているのかということが見えてこない。かなりきつい言い方ですけど、リンダーに男的な衣装を着させておけばいくらか「そう」見えるというレベルでダラスの人物造形の作り込みが止まっているんじゃなかろうか。
身体的には女性として生まれながら男性的な志向を持っていることを示すために大工の仕事をさせ、オーバーオールを着させジャケットを着させ、トップキック(違ったかもしれん)を運転させる。これがクリシェではなくてなんなのだろうか。

ジャスミンに関しては、監督のインタビューから察するに潜在的にバイセクではあったものの男であるライルと付き合っていて、ダラスとのキスによって芽が出たという感じかな。この辺は、結構うまかったとは思う。たぶん普通は女性が女性にキスされたからってあそこまで感情的にはならない。でもジャスミンは感情的な反応をしてしまう。なぜなら、それがライルへの不義=恋愛感情であるから。ここをセリフではなく反応で描いたのはいいと思う。その反応自体がちょっと過剰かもしれないけど、意識していなかったものが自分の中にあったということに気付かされればああもなるだろうし。

でも、残念なことにこれ以上はジャスミンのセクシャルとアイデンティティは絡み合うことはなく、陳腐な恋愛模様の中に沈められていってしまうんですよね。言いたかないけど、主役二人が異性だったら話題にすらならなかったんじゃないかなぁ。悪い意味でセクシャリティやポリコレを意識しすぎてしまったんでは。手段が目的になってしまっているのではないか。

辛うじてライルに対してはそこまで悪い印象はないんですけど、あんまり登場している場面が多くないからなんですよね・・・。でも一応、彼が差別主義者ではないということは提示されているから、って部分もあるかな。彼女が女に寝取られたって、ミソジニーは真剣に怒ったりしないはずだから。だって相手は女であって恋敵にはなりえないとタカをくくっているから。同性愛そのものを侮蔑する輩もいるだろうけれど、少なくともライルはそういう描かれ方をしていないし。

それに全体的にシーンの見せ方が悪い意味でCM的。

あと、これは限りなく偏見に近いイメージではあるんだけど「同性愛者は肉体関係を優先する」っていう印象が自分の中にはある。ほら、ハッテン場とかもそうだし銭湯とかでやるようなゲイがいるらしいですからね。もちろん、ヘテロにもそういう連中はいることは承知の上で。
で、ここを至極当然のように描いてしまったことも結構問題があるような気がする。前述したとおり、ゲイなんかはともかくそこらじゅうで誰彼構わず(好みの問題ではなく)セックスするという印象が自分の中ではあるのだけれど、そういうことをする人たちにはちゃんとした理由があって、そうじゃない肉体関係よりも精神的な繋がりを重視する人もいるんじゃないかってずっと思っていた。だけど、この映画ではそれをそもそもの大前提として描き、どうして「肉体を優先するのか」という疑問はそもそも提示されない。それを所与として描いているから。

監督はギズモード・ジャパンのインタビューで「LGBTコミュニティをいまいち知らない人たちが描いている場合があまりにも多いんです。リサーチをしたり、なんでも聞ける友達がコミュニティに属していればいいのですが、そうでない場合は「こうなんじゃないかな」「こういうもんだろ」と想像しながら表現を作ってしまっています。その一つの例が『アデル、ブルーは熱い色』。これは完全に男性側からみた「女性同士ってこうなのであろう」というファンタジーなんです」と答えている。

この発言にはおそらく批判的なニュアンスも含まれているのだろうけれど、ファンタジーは悪いことではない。いや、最初からそういうふうに描く意図があって作品の中で上手く機能しているのであれば、ということだけれど。この意趣返し的にリアルなLGBTを描こうとして肉体優先が自然なものとして描いているのだろうが、だからといって映画のクオリティに寄与するかというのは別問題だ。

むしろ、束縛した母へのあてつけとして同性とのセックスに明け暮れているといった理由付けのほうがパーソナリティにつながっていくじゃんすか。

LGBTの普遍的なリアルをただ持ち込むだけでは、LGBTを定型的な枠組みに押し込むだけにしかならない。で、本作は多少なりともそうなってしまっているのではなかと思う。この辺はバランスが難しいというのはあるだろう。それに多分、ヘテロとか同性愛とかに偏見がない-ーというかその差異の理由に興味はあっても差異そのものへは関心がない-ー自分がフラットに見すぎているというきらいもなきにしもあらず。だから、見る人によってはこんな面倒なことを考えたりはしないのかもしれない。

 とはいえ、やっぱり彼(女)らのうたう純愛というものはどうにも浮薄に感じてしまう。だって恋愛ってそもそも性欲を美化した表現だから。性欲を恋愛という形で言い換えているだけにすぎず、純愛っていうのはその先にある肉体を超越したものだと思っている自分にしてみれば、今回の描き方は「あ、やっぱり同性愛者って心よりも肉体が優先しているのだろうか」と思わせかねない。セックスから始まる純愛を否定するつもりはないし、ダラスが冒頭でセックスしていた女の元を訪れてセックスしてしまったのも本当にジャスミンが好きだったからむしゃくしゃしてやってしまったというのも感情としては理解できる。だからこそ、それが青いということであって肉体や遺伝子に対する理性の敗北ではないかという気がして乗れなかったりする。

シネマート新宿の初回ということでAKIRA氏とルウト氏のトークイベントもありましたので、それとも関連して一つ。彼女(彼?)らの発言はかなりオープンで、映画の内容も内容だけに二人のセクシャリティについても言及があったのですが、浮気もするしワンナイトもするしといった感じでした。普通、ヘテロの人はそういうことは隠したがるはずです(まあその人のキャラとか大衆への認知にもよりますが)が、彼女らは臆面もなくそういうことを言ってのけていました。つまり、彼女らにとっては性的な付き合いというものは好意がなくても日常的なものであるということであるわけで、自分の認識があまりに深く考えすぎていたというのはやはりあるかもしれません。
でも、自分には同性愛者ということを隠れ蓑にして不義を正当化しているようにも見えました。そして、前述したような「所与」を含んだこの映画も同じように見えてしまったのかもしれません。
だって、同性愛者とか異性愛者とかにかかわらず、不義は不義ですからね。ラストでジャスミンとダラスはハッピーエンドを迎えますが、それをライルに受け入れさせるということは「同性愛者は不義理をする生き物だから異性愛者は我慢してね」という印象をも与えかねません。そんでもって、トークイベントの二人も。
同性愛者にだってそうじゃない人はいるはずですから、そういう描き方をするのであればなおさらメイン二人のパーソナリティを掘り下げ、「だから彼女は性を貪る」という根拠を提示すべきだったのではないかと思う。

トマトの評価から察するに、その意味でポリコレにとらわれすぎてバランスを見誤った作品だと言えるのではないでしょうか。



まあ、そもそもからして自分に向いている映画ではなかったということで一つ。

 
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