『シャイン』での衝撃を未だ忘れない。
厳しい父のもと悲惨な少年時代を過ごした天才ピアニスト、デイヴィッド・ヘルフゴットの半生を描いた衝撃作だった。
これはその『シャイン』のその後の生活、現在のヘルフゴット夫妻の日常を映すドキュメント。
彼らがこんなに穏やかで楽しく幸せな生活を送っているとは知らなかった。
まるで昔の幸せ貯金が多額の利子とともに返ってきたかのよう。
『シャイン』では結婚までのことしか描かれていなかったので、妻ギリアンがどんな思いで求婚を承諾したのか、当初の結婚生活がどんな状態だったか、ギリアンの息子はどう受け止めたのか、などは初めて知ることができた。
初めからこのように平和な生活が送れたわけでは
なかったようだ。
『シャイン』についての話題も出るので、それを観ておいたほうが理解が深まるが、そういう作品があったと知ってさえおけば問題ないだろう。
でもどうせならこの機にシャインを観てから、或いは観かえしてから、これを観るにこしたことはない。
あれもまた傑作なので。
二つ観れば、前編・後篇のセットのようにお互いを補完しあって、より深く観ることができる。
彼は11年精神病棟で入院したあと、禁止されていたピアノを再開するとともに退院し、コンサート活動も再開した。
退院後ホテルの部屋に精神科医を大勢呼び多くの質問を浴びたが、誰も診断名・病名を付けなかったという。
では彼の11年の苦痛は一体何だったのか。
当時の未熟な医療は、彼に長く苦労を負わせた。
精神科治療の様々な問題は未だ根深く続いている。
彼の演奏は型破りで、情熱と希望そのもの。
しかし、彼のエピソードや背景にかえって反感を持ち、偏見を持って、聴こうとせず、否定に走る人もいるそう。
だが、音楽の本質は型通りに演奏することが全てではない。
型は大事だが、別に大きく逸脱した人がいたっていいし、もっと自由に、独自の情熱で弾いても良いはず。
私も、人の見た目やバックグラウンドなどに偏見を持たず、誰の演奏でも、こだわりなく聴かねば、と思った。
彼のコンサートの映像が、日常の取材と、交互に差し込まれる。
手元のアップがあったが、ある音では打鍵した後でその鍵をぎゅうぎゅうと念入りに押し込んでいた。
そのように、とはよくピアノで教えられることだが、本当にあんなに押し込むとは、彼の演奏は本当に自由でオリジナルだ。
彼は甘いものが大好きなのだが、だめでしょ、と取り上げられて「Ah...」と言いながらしょんぼりとほんの数音だけ「エリーゼのために」を悲しく弾いたと思う。聴き間違いでなければ。
彼は弾こうと思って弾くのではなく、感情と音楽が一体。
彼は難曲を難曲と認識せず弾く、と指揮者は語る。
普通はそれを必ず認識するから演奏を難しくする。
その曲の霊性と母なる自然は、彼の中で不可分なのだろう。
オケ合わせでも、指揮者も団員たちも笑い出してしまい、みな音楽の喜びにあふれて演奏をともにすることになる。結局、良い演奏となる。
彼は、知らない人でも、目に留まるとすぐ満面の笑みでハグをし握手をする。
初めは拒む人もいるが、そのうちに笑い出してしまう。
そして、ひとしきり話した後、彼はいい人だ、彼女もいい人だった、と結論づける。
相手が良い人か嫌な人かは、こちらの態度によって決められている、ということを証明するかのようだ。
これが最も印象に残った。
少しでもデイヴィッドのようになれたら、人間関係はもっと身軽になり、人生が明るく、希望に満ちるはずだ。見習いたい。
不幸だと感じている人、病気や障害に苦しんでいる人、いらいらして悩んでいる人、みんなにお薦めしたい。
生きるヒントがもらえるはず。
デイヴィッドの屈託のない様子を見て、翻って自分の態度はどうだろうかと考えさせられた。到底及ばない。
世界には自分で自分を不幸せにしている人も案外多いのではないか。
終始笑いに溢れた楽しい作品であり、それだけでなく、深く示唆に富む。
今後定期的に観たい作品の一つとなった。