牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件 デジタル・リマスター版の作品情報・感想・評価・動画配信

「牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件 デジタル・リマスター版」に投稿された感想・評価

bluesmoke

bluesmokeの感想・評価

5.0
ある過剰さにつかまれた存在は
どこへ向かうのか

映画を観て感動につかまれたときに、その感動をなんとか口にしてみたいという欲望は、いったいどこへ向かうとしているのか。たんに良かった面白かったでは済ませたくないそうした思いは、おそらくは何らかの過剰さから生まれています。

この過剰さがどこからやって来たものかに関してはそれほどの難題ではなく、作品への言及を通して自分を見つめることであったり、言葉へ置き換えていくなかに自己慰安があったりなど、つまりはそれが人の社会性と言えるものだろうと思います(自己顕示欲や承認欲求などという意地悪な見方も当然あります)。

しかしながら、それがどこへ向かおうとしているのかという問いに関しては、たいへん難しいように思います。

たとえば「良いお客が良いお店を育てる」といった意味で、レビューを重ねていくことは鑑賞眼を養うことになり、ひいては良い作品が生まれる土壌にもなっていく。そんな説明も可能ですがおそらくは誰も目指していないでしょうし、もっと本質的に考えてみても(社会的で文化的な)外側で起きる現象へと結びつくよりもっと手前の、ひとりひとりの心の問題として切実な何かがあるように思えてなりません。

そのことをあらためて考えさせられる作品でした。この映画に描かれる挫折した魂の軌跡もまた、同様の過剰さにつかまれた結果と言っても良いからです。

マーティン・スコセッシが激賞したために、監督であるエドワード・ヤン生誕70年を機にリバイバルしたという本作は、スコセッシ作品さながらに長い上映時間のなかで少しずつ背景に馴染んでいく仕立てになっています。台湾の歴史なども含め、細やかに追っていけばいろいろあるのでしょうけれど、映画作品として味わうために必要な骨子は以下の通りかと思います。



1)2つの不良グループの抗争が描かれる。主人公の小四(シャオスー)が所属し今は身を隠しているハニーをボスとする「小公園」と、のちにハニーを暗闇で突き落として殺す山東(シャンドン)をボスとする「217」。

2)当時の台湾には「外省人」と「本省人」という区分が鮮明にあった。1945年の太平洋戦争終結以降に台湾省へ移り住んだ人々が「外省人」で、それ以前から住んでいた人々が「本省人」。小四(シャオスー)たちは「外省人」にあたる。

3)中国大陸では「国民党vs共産党」との争いが戦前(1927年)から続いており、1945年の日本敗戦をきっかけにこの争い(国共内戦)が激化。敗れた国民党の多くの人々が1949年頃に上記の「外省人」として台湾へと渡った。

4)日本家屋に日本刀などが出てくるのは日本による統治時代の名残。「外省人」である小四(シャオスー)一家が違和感を口にするシーンも描かれている。

5)国民党による「中華民国」は、共産党による「中華人民共和国」が成立(1949年)することによって国の領域を縮小されたものの、東西冷戦の影響によりアメリカからの支持を受ける。劇中でエルヴィス・プレスリーなどが印象深く描かれるのにはこうした背景がある。

6)「外省人」である小四(シャオスー)の父が警察に連行されるシーンは、5)を背景としている。東西冷戦の構図のなか、大陸の共産党分子を摘発する動きがその後も台湾では長年に渡り続いた(白色テロ:1947−1987年)。



登場人物はかなり多いのですが、上記の構図をつかんでおけばそれほど大きな混乱はないように思います。またこうした背景のなかで揺れ動く群像劇とは別に主人公の小四(シャオスー)にとって重要な出来事が2つ描かれており、これこそが本作の主要なテーマに結びつきます。

1つは台南から帰ってきた「小公園」のボスであるハニーが口にするトルストイの『戦争と平和』。もう1つはハニーの恋人だった小明(シャオミン)が口にする「世界を変えらないように私も変えられない」という言葉。

『戦争と平和』をはじめトルストイの作品全体に流れるテーマとしてあるのが、混乱や混沌のなかに生きる1つの命がもしも光明を照らすことができるならそれは何かというものです。トルストイはそれをキリスト教のなかに見出そうとしました。

小明(シャオミン)が元恋人のハニーについて「みんな彼を恐れているけれど彼はただ誠実なだけなの。だから損することも多い。いつかそれが命取りになるわ」と予言したように、ハニーはその誇りゆえに単身で「217」に乗り込み命を落とします。それは1つの殉教と言っても良い姿です。

そして小四(シャオスー)もまたハニーを慕うようにその意思を継ごうとした姿が、小明(シャオミン)への告白のシーンでドラマチックに描かれます。練習するブラスバンドの大音響のなか精一杯の声を振り絞り「君を照らす、ずっと守る」と告白します(ブラスバンドの音が一瞬、鳴りやむ素晴らしいシーン)。

しかしながらいったんはその言葉を信じる姿勢を見せながらも、小明(シャオミン)はある女性像の象徴として(トルストイ作品の多くがそのように描いたように)、あるいは世界そのものの姿として小四(シャオスー)たちのなかにあるトルストイ的な考えを否定します。「世界は変えられない。あなたは何様のつもりなの? 私も変えられない」。この言葉とまったく同じものを、小明(シャオミン)から聞く前に小翠(シャオツイ)からも彼は聞くことになります。

このあたりはたいへんナイーブな展開で、小翠(シャオツイ)へと向けた打算的な思いからも小明(シャオミン)という理想へと向かう思いからも、彼は続けて否定されることになります。だからこそ僕たちは小四(シャオスー)の絶望と逆上を、物語のなかで自然に受け入れることになります。彼は殉教することもかなわず、打算に生きることもかなわなかった。

さらには小四(シャオスー)の父親も、良心と理性を光明に生きようとしながらそれに挫折した人物として描かれています(もっと柔軟にということを、彼は妻や友人などさまざまな人から言われます)。

エドワード・ヤン監督は自身のルーツと生い立ちのなかで起きた「少年殺人事件」を紐解く際に、トルストイ的に生きようとした1人の大人と1人の青年と1人の少年それぞれの殉教と挫折を通して、人が人であるかぎり求めてやまない魂の光明を描こうとしたように思えます。

また小四(シャオスー)の2人いる姉のうちの1人がキリスト教に傾倒している姿は、男たちが何かに殉教しようとする姿と並行して描かれた副旋律のように響きます。



同じように国と国の争いのなかで翻弄されながらも、光のなかに生きようとした魂の挫折を描いたものとして『アンダーグラウンド』(エミール・クストリッツァ監督, 1995年)や『アラビアのロレンス』(デヴィッド・リーン監督, 1962年)などが思い浮かびます。

本作もまたそれらに匹敵する圧倒的な作品でした。

少年たちが翻弄されるそれぞれの対立はそのまま大人たちが翻弄される対立の影であり、それらが入れ子構造のように響きあいながら群像として揺れ動いていきます。またどのシーンやどのカットをとっても計算され尽くした絵画のように深みがあり、たんなる美しさや不吉さや暴力的なものを超えた圧倒的な絵作りとなっています。その方面の教養があればあるほど、絵画の巨匠たちの名前が無数に脳裏に浮かんできそうです。

僕たちがある過剰さを抱えながら感動を口にしたいという欲求をもつとき、その過剰さはどこへと向かうのか?

それがどこであるかを僕は見定められませんが、その問いを深く胸に思うとき、僕たちは間違いなくたんなる受け手(鑑賞者)ではなく送り手(表現者)たちと同じ地平に立つことになる。感動体験はそれを真摯に受け止めたとき、彼らが見たり見ようとした場所へと僕たちを連れて行くことになるのだろうと思います。

ですからその先に何があるのかは、表現行為が続く限り、もしかすると原理的に解き得ないものなのかもしれません。またこのことをパラフレーズ(敷衍)するように言えることは、ある過剰さによって支えられたものはすべて、それが言葉であれ人であれ表現のいっさいであれ、どこでもないどこかへ向かっているとも言えます。

殉教することもかなわない挫折した道のりを、大音量のブラスの響きに打ち消されながら口にする愛の言葉のように。
ちろ

ちろの感想・評価

3.0
ファムファタール映画ってつくづく相性悪いなぁって改めて痛感。
相性が良ければ4時間あってもたいして長く感じませんが、これはかなり時間の長さを感じてしまった……
全編を通してあらゆる登場人物のエゴを感じる映画でした。
ぼくが世界を照らしてみせる。

少年が光を得て、失くして、
見た世界の隅々まで息づいた完璧な光と闇。
歴史のうねりの中で大人も子供も
爆発しそうに生きていた時代。
中国と台湾、台湾と日本、日本刀と銃、
プレスリーと西部劇、青春のきらめきと残酷さ。
それを映す隙のない構図、美しい画。

高校生の時、すべては分からなかったけど
きっとこれが映画なんだろうなって思った。
20年ぶりの再上映ありがとう。
正しくて冷静であることは時に人に刺さりすぎる。
10代は悩んで苦しかったなとあの時の気持ちを思い出した。その時々悩みがあってもがいて、でもすぐに忘れてしまう。

39/115
初めて2人で歩くシーンの、足引きずりながら歩く、柱、振り返るみたいな独立したリズムがある感じから最初の2時間のラストで同じアングル、けど小四が後ろから走ってきてて吹奏楽が演奏しててそれ背景にして向き合うアングルに変わって守ってあげるって言うっていう、ここピークにしてドラマティックなボーイミーツガール映画になるのかと思ったら、その後2時間不能感を高めていく展開が続いてびっくりした タイトルの殺人事件、ハニーの件じゃなかったのかって思った最後

真面目で純粋な小四がいて、その父親は正義感が強くて子思いで優しいんだけど貧乏で権力もなくてっていう適応できていない人で、小四が受験に失敗する、ヒエラルキーを登り損なうところから始まる そこに暗い事情のありそうな守らないといけない悲劇のヒロイン的な存在として小明が怪我した状態で出てきて、そこから下心か純粋さかとりあえずその子を守りたいって動機から始まる ただ、父親の情けなさに対してハニーや007を憧れの男性像として自己同一化していってギャンググループ?に入る ただ結局は刀持って監視してるだけだし、父親を見下してる店主を殺そうとするけど結局助けることになるし、敵として設定した滑頭は丸くなってて復讐も果たせないし、小明は自分とは関係持たないのに自分以外とは関係を持っていて、なんならその滑頭とすら持っているっていうひたすらにその憧れの姿になれない展開が続いて、その不能感が高まりきったところで小明を一方的に刺して終わるっていう、父親とは違って自分はヒエラルキーを登るってところから始まって、結局登れず挫折し続けて劣等感だけ蓄積された結果父親よりも酷い結末になるっていう話

退学をきっかけに転入目指して勉強して元の生活に戻り始めたのに、その先に小明がいないことがわかるし他の子にも価値観押し付けてくんなって振られるっていう、自分の理想のストーリーがひたすら否定されて折られていく感じ

小四とは逆に兄は父の反復みたいな感じの立ち位置になっていて、時計の件でひたすらしばかれてるシーン、あのビリヤード以外に稼ぐ手段がないしそれも普通に負けるっていう全く頼りないけど人の物を自分も背負おうってする優しさもある人間性みたいなものが綺麗に出てて感動的 ただ、それに対して小四はある種冷めたような目で見てるし、カメラも家の外から撮ってて声響き渡ってたりとか外からの視線感じさせるっていう、この行き場のなさ

別の選択肢として姉からのキリスト教への誘いがあるけど、正義、信念のある父親のそれがゆえに適応できない情けない姿を見てるから、他に同じように一つの信念や理念を持つものへの信頼感がなくなっていて、だから無視したんだろうなと思った

台北ストーリー、恐怖分子と見てきて、この監督の映画には劣等感、ヒエラルキー的に下にいる自覚的なもの、より優れた明確な比較対象があるけどそれにはなれない不能感みたいなものがかなりある気がしていて、この映画はヒエラルキー的な価値観、後に家父長制に繋がるような価値観に染まるタイミングとして思春期があって、でもそこで挫折することで、より拗らせたファシズム的な考え方、支配するしかない、支配できないなら殺すしかないってところに行き着く映画って感じがした

そういう意味でアメリカや日本に対する台湾って感じがする一方で、日本人が立ち去った後の日本家屋に住む中国大陸から移住した家族がいて、屋根裏には日本人女性が自決するために持っていた小刀があってっていう、その行き場のなさを重ねた存在として戦争に負けた国としての日本もあるようにも、非常にテンプレな見方かもしれないけど思う

ショット単体でのすごさが強かった恐怖分子に対して、この映画はショットの繋ぎ方がすごくて、小明と出会うシーンのあのドア越しに男がオブジェクト的に並んでるのが見えるところから一連のくだりの後同じアングルに戻って実は元彼ってわかる医師含めた4人が並んでいるところとか、討ち入りのシーンの振られた女の人がレコード投げた先から討ち入りの面々がカメラに入ってきて、そっから討ち入りのシーンが続いた後またその女の人のところにカメラが戻ってくるのとか、かっこよくて最高なシーンが大量にあった

最小限のカメラの動きでショットを作ってその繋ぎ方で語るって感じになっていて、最後警察に家族が駆け込むところだけがそうなっていないとか、ドアとかふすまとか使ってのあの画面の切り取り方とそれギミックみたいに使ってカメラ動かさずに語るところとか、暗闇が本当に暗いから灯りのあるところにふっと人の姿が浮かぶとか、戦車、射撃演習、遠くから見てる子供縄張りの子供、からかってくる声のする先が暗闇とかのショットの不穏さとか、最初に小明が映るショットのあの照明がチカチカしてるのが廊下越しに映って、カメラが切り替わって照明がついたら一瞬画面の端に映るあの感じとか、小四と小明が会うのをドアの反射越しに映してるのとかもう4時間ずっと良さしかなかった
モ

モの感想・評価

3.0
長かったけど無事完走!
相関図とか誰がどのグループにいるかとか分からなくて解説と並行して見てました
後半から段々面白くなったけど、盛り上がるまで長い…雰囲気やお話の感じは好きだけど長い…
運命の桃花〜辰汐縁〜のチャンチェンさんの少年時代が見られます😍

これから見ようとしている人は読まないでください。以下はマイナスコメントです。
皆さんの感性豊かなコメントを読んで📝自分の能力のなさを痛感します。


4時間弱…苦痛でした。
『不朽の名作❗️伝説の名作❗️マーティンスコセッシ絶賛❗️21世紀に遺したい100本でたった一つ入った台湾映画』ってありましたが…
わかめちゃんみたいな凡庸な女学生が、不良グループのボス、ハニー🤣の女って…
そしてその女の子が、他のグループの不良に色目を使って「私ってモテるから」的な…
この少女?が曲者。パッとしない普通の顔と雰囲気+アホな言動なのに、ファムファタル的な😅モテモテ度💕この一人の女を巡ってケンカする男ども
正直、刺されても同情しません。
少年殺人事件って題名のわりに、その前にだいぶ不良の闘争で人たくさん日本刀で斬りつけて死んでます。まるで任侠モノのヤクザの闘争です。
残念ですが登場人物の誰にも感情移入できず、理解も出来ないままとなりました。
嫌いじゃないよ…、嫌いじゃないんだけど…、こういうタイプの4時間作品はちょっと長過ぎかと…。
しべ

しべの感想・評価

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このレビューはネタバレを含みます

少年 (小四) と少女 (小明) の出会いやそれに続く様々な事件によって50年代後半-60年代の台湾における国および個人のアイデンティティの脆さが露呈し、小四のかりそめの平穏は破れカオスな現実が剥き出しになるというプロットが良すぎる。
小明は元から不安定でカオティックな現実を生きているが、そのことに小四が気付くには彼自身の平穏がある程度破られる必要があった。小四は現実から小明を守るつもりだったが、小明は自分こそが現実の映し鏡と考えていた。その認識の差が喧嘩の中で一瞬にして埋まってしまったことが重大な事件の引き金を引いたのだろう。(そう、この映画の紹介にネットでよく使われている、拳銃を構え引き金を引く小明の画はとても象徴的で伏線にもなっていた思う。一瞬で空間を切り裂き危うい現実を突きつけてみせる。)
顔のアップなどによる心情の直接的な描写は避けられていて、かわりに登場人物がどんな環境に置かれていたかが緻密に描かれる4時間弱は重層的であっても息苦しさは感じなかった。
ハニーが殺される時や襲撃の時、拳銃のシーンなどなど、もちろんクライマックスでも、停滞した空気に一瞬で殺意がきらめく感覚がとても印象に残った。
夢のような柔らかな光を湛えた日中と真っ暗な闇に電球の灯る夜の対比が綺麗。植物の繊細な緑とビリヤード台の鮮やかな緑も美しかった。動きの少ないカメラは時としてこちらが見たいものをあえて物で遮ったり、闇の中に隠したり。
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