エクストリームマン

羊の木のエクストリームマンのレビュー・感想・評価

羊の木(2018年製作の映画)
4.1
「船の上なら俺が強いぜ」

じゃあ、陸なら…

魚深に放たれた(という表現が一番しっくりくる)6人の殺人犯達の誰よりも、それを迎える月末(錦戸亮)の放つ虚無が鈍く輝いていて、その昏い光こそが宮腰(松田龍平)を強く惹きつけたに違いないと勝手に納得してしまった。

映画の冒頭で6人の新町民をそれぞれ迎えた月末は、彼らに「いいところですよ。人もいいし、魚も美味い」と語るが、結局何かしら食事をする席でついぞ魚を口にすることがない(太田理江子(優香)と空港でパフェを食べていた時もあったにせよ)。宮腰だけが、定食屋で刺し身を選んで、ついでに月末も「友達」として選ぶ。そんな場面を見せられて、月末をただの気がいい普通の青年、などとは到底思えないわけで。寧ろ、宮腰の秘密を嫉妬から石田文(木村文乃)に漏らしてしまう彼が正気に見え、半端な笑顔で戸惑っている風の、つまりいつもの月末の空疎さには怯えてしまう。

何かが終わることそのものよりも、その気配こそが緊張感を生み、影を濃くする。たとえば『サウダーヂ』に立ち込める絶望的な息苦しさの気配は、何もかもが終わり切らないことに起因していた。本作では、殆どの場面で示されるのは予兆や気配のみであって、それがある一線を越えて何かしらの形ある出来事に結実しない。そうしてくれた方がよほど気が楽なのに。それでも『サウダーヂ』とは違い、本作はある意味で順当にクライマックスを迎えるが。設定として最初から振り切れて「向こう側」にいる宮腰の抱えた切実さこそ、共感や理解の可能性が開かれていて、逆に観客のプロキシとして設定されている筈の月末と観客(全体ではなく、一部かもしれない)との間にある隔絶は、崖から海へ飛び込んでさえ埋まらないところが興味深い。あたかもデウス・エクス・マキナかのように、魚深の時間を切断して見せる「のろろ様(の首)」に選ばれたのは、実際月末ではなく宮腰だろう。宮腰に救済が訪れ、月末は再び魚深の日常へと還されたのだ…。死と再生を経ても尚変わらず終わらない日常に。

中盤でかなりの尺を使って描かれる「のろろ様」の奇祭描写がとにかく素晴らしく、あの独特の倦怠感を捉えられているのは、設定を緻密に組み上げた結果なのか、映画的マジックの結果なのかすら定かでないけれど、いい加減捻じくれた状態になっている設定を本編よりも更に飛躍させても大丈夫だったのではないかとさえ思わされた。それくらいの説得力。

俳優陣は、これだけ観念と象徴に寄った物語を具象化しただけで皆素晴らしいのだけど、特に北村一輝と優香が光っていたかな。演技の巧みさだと北村一輝が突出していて、台詞と姿勢、目線で自分が放つ“圧”をあれだけ自在にコントロールできるのかと、ひたすら感心していた。優香は、優香に見えなかったというところがすごくて、(吉田大八の演出もあるのだろうけど)役柄としての説得力が素晴らしい。