2018.3.16
自宅TVにて鑑賞
何故この作品が日本では(「目の肥えた」観客によって)酷評され、本場アメリカの批評家にはこぞって絶賛されるのか、この国の人々は皆よく考えた方が良いだろう。
映画批評というこの良く分からない分野では、日本では完全に商業主義、反知性主義が蔓延してしまっている。つまり、「直感的に私が面白くないと思ったらそれが絶対」という姿勢だ。そういう批評家気取りでゴミのような文章を書き連ねる人種はほぼ間違いなく、映画ではなく「ストーリー」しか見ていない。彼ら彼女達が「鑑賞」して一人前に「批評」しているそれは残念ながら映画ではないのだ。気付いてはいないようだが。
ただこの国の生産者はそのノイジーマジョリティ(最悪である)の声を敏感に感じ取り製作のリスクヘッジをするため、邦画では特に顕著に小説をそのまま映画化したような映画風小説読み聞かせ劇が無数に作られている。それがまたあの「批評家」達を助長させる。まさに負のスパイラルである。
そこにこのような映画がやってくると、基本的に軽薄な権威主義者でもある彼らは動揺し、互いに顔を見合わせながら、低評価を結局はつける。そこには何も、何も学ぶ姿勢は無い。
この国に映画という文化が再び根付くのは随分先の話になるだろう。
話の流れは単純である。
黒人のゲイであり虐められるもヤクの元締めに世話をされたりヤク中の母親に拒絶されたりする小学生の頃、未だ状況が変わらずも幼馴染が自慰を手伝ってくれた高校生の頃、そしてヤクの元締めになってその幼馴染に会いに行くという20代の頃と、3つの年代が客観的に描かれる。
演出としては基本的に観客をノセる事はなく、黒人でゲイの人生というものを淡々と洗練されたフィルミングで描く。
最初のカットを代表としてその後幾度となく使われる長回しのほとんどは丁寧で良かった。20代の頃の最初の方のカットで、車のドアにカメラがついているような長回しは脚本上の盛り上がりと含めて最高だった。
また、合間合間に少しずつ差し込まれる幻想的で非現実的なカットも本当に美しい。
黒人であること、ゲイであること、キリスト教圏では、「神につくられたものではない」ととかく差別される彼らが地球に祝福されているかのように自然と楽しげに戯れるカットだ。この映画は一見強い主張が無いように見えるのだが、良く観ると確固としたメッセージが重く響いてくるのを感じる。
この手の社会問題を題材にする時にドラマ仕立てにしてハッピーエンドで終わらせてしまうそのご都合主義、偽善性、そして観客の想像力を奪ってしまう事その全てを拒んだのだろう。
主人公が劇中で繰り返す「何も知らないくせに」という台詞が、この映画の意義のすべてだろう。
何も知らないくせに、浅はかな理解で分かった気になっている、そのナメた姿勢をこの作品は根本から揺るがし、壊す。