ベルサイユ製麺

ニーゼと光のアトリエのベルサイユ製麺のレビュー・感想・評価

ニーゼと光のアトリエ(2015年製作の映画)
4.9
実話。1944年。リオ・デジャネイロ。
薄汚れた鉄扉をノックし続ける身なりの整った夫人。ここは国立精神医学センター。夫人の名はニーゼ。ベテランの精神科医。着任したばかりのセンターで彼女が目にしたのは、当時の“最先端の治療法”であるロボトミー手術や電気ショック…。
まるで実験台のように患者達を扱うセンターの方針に反発した彼女は煙たがられ、閑職と目されていた作業療法部門に回されます。

汚れ放題、荒れるがままだった療法室を、きちんと人間の為に場所に戻し、見放されていた患者達ひとりひとりと親身になって接するニーゼ。決して叱らない。無理強いしない。急がない。当たり前のことだけど、とんでもなく大変なこと。そしてニーゼと患者達は少しずつ心を交わすようになっていきます。
微かな変化の兆しに、センター内にもニーゼに同調する者が現れます。医師アルミールはニーゼに提言します。「ここにアトリエを作らないか?」


学生の頃、何気無く立ち読みしていた書籍に“ロボトミー殺人事件”という出来事についての記載があり、その余りに非人道的で破天荒な内容に「たかだか30年そこら前の事とは信じがたいな」と憤慨しつつ読み進めると、掲載されていた施術医院の写真が、下宿先から100メートルくらいしか離れていない、現存する施設だったことが判明して大いに戦慄させられた事がありました。…想像よりも遥かに身近な出来事。施術された方で存命の方も多くいらっしゃる事でしょう。色々な経緯や現実問題との兼ね合いも当然有り、なので一概には言えるはずもないのですが、どうしても自分には“黙らされた人たち”と感じられてしまいます。


自分は比較的美術全般は好きな方だと思うのですが、美術史や技術的な事などは全く疎いため、ついつい伝統を踏まえず鑑賞出来る(その認識が大間違いなのだが)現代美術やアール・ブリュットを好む傾向があります。特に、“障がい者”とみなされている人達による表現。専門的な訓練を受けていない作者による、独自の世界解釈の断片やその色彩、特定の図形の連続で構成される曼荼羅の如きイメージ世界からは(※勿論、ひたすら禍々しい物もあるのは存じております)、時に私たちが普段目にする世界を上回る圧倒的な強度と正しさが感じられて、そんな時いつも自分は日常的な立ち位置不安から解放してもらっています。何一普通に出来ない自分は、強く勇気づけられるのです。“無意識に秘められた 可能性を信じて”。
障がい者は、少数者は、果たして“助けられる”だけの存在なのだろうか?少なくてもニーゼの態度からは、何かをただ“してあげている”様には感じとれなかったなぁ。

映画と直接関係無い事をダラダラ書き連ねてしまったのは、この作品が訴えかけてくる事を正しく消化しきれていないから。あと単純に、作品をつまらなく感じさせる様な酷い紹介文しか書けないから…。
普段、役者が障がい者を上手く演じる事について感じるモヤモヤは今回感じなかった。事実の再現だからかもしれませんが、何にせよ心が“問題”を感じ取らなかったから、きっと正しいんだろう。
電気ショックはともかく、ロボトミーで救われた人も沢山居た、のはまあ間違い無いでしょう。だとしてもニーゼは間違い無くロボトミーを嫌っていたと思いますが、それは、どうしても、止む無くロボトミーを施術せざるを得ない人と、寄り添い筆を握らせ辛抱強く待つべき人の区別を人間が決めてしまう事への抵抗感からだったのではないかと思います。劇中、ある障がい者はゴミ箱を漁りながらこう言います。「何がゴミなのかは人間が決める」。

全くもって無力で、バカで役立たずのわたくしでは有りますが、ゴミ箱の中から全力でこの作品を皆様に推薦させて頂きます。蓋をしてしまわなければ、光はいつか必ず差す。