白

ビリディアナの白のネタバレレビュー・内容・結末

ビリディアナ(1960年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

【メモ】
通念的道徳や宗教に対する過激な挑発として映画は(社会諷刺という言葉では決して物足りない)ブラックユーモアに包まれたペシミズムを以て作品を統一し、非情な現実認識を付与する。
まずキリスト教上の悪徳が映画中で散見される。少女の「大きな牛が来た」という発言において牛とは怠惰≒堕落を象徴する。またホルヘが犬を貰い受ける件において、犬は(飽くなき)羨望を象徴する(同時にここでは動物虐待も仄めかされる)。無論上記だけでなく七つの大罪及びその象徴が随所に散見される。これらモチーフはそれだけでカトリックに対する挑発行為であると同時に登場人物の未来像を客体に予感させる。つまり物語はその溢れ出る不道徳と涜神性を以て神、聖なるもの、キリスト教、合理性、一切の美徳を否定する。次第に浮かび上がる混沌へと私たちは引きずり込まれ、今いる現実に対し過酷な問題提起を投げ掛けられるのだ。
無意識的に発動する本性として夢遊病は劇中に登場する。ビリディアナは灰(キリスト教的解釈における死·罰)を拾い上げ持ち帰る。博愛的な優しさが表れている一方で、その時同時に彼女の手はその灰によって汚されている。「死」を契機にビリディアナは乞食救済のためユートピア建設を志す。盲人、癇癪持ち、色情狂、ハンセン病罹患者といった乞食のヴァリエーションと彼ら彼女らの生活はまさしく現実世界の大衆に呼応している。大衆はその脆弱性を文化として自負しながらも、その欲望に止め処ない。結果として乞食等はビリディアナの厚意に付け上がり、終末的な混沌の様を齎す。ここでまるで共産主義的理想像として描かれるビリディアナのユートピアの顛末は、擬似宗教としての共産主義とキリスト教を呼応させ、物語の平行線上でそれらの堕落や無価値を諧謔的に諷刺する。懇意を濫用された果てに二度目の強姦を受けてビリディアナは自己の中核を為した信仰を見失う。そしてビリディアナと世界の輪郭は崩れて行く。なおエンディングに至るまでこの作品は不道徳的示唆を一貫する。しかし後味は不快感に占められることなく、全く蠱惑的である。ブニュエルの描く涜神性が寧ろ非常に愉快であるのは、作品が時代性を敷衍し、猜疑の眼差しの向けられることのないその根底を見事に指摘したからだろう。ビリディアナの行動は設計主義と進歩への欲望を否定した。設計主義に踏まえ例えられる人造国家アメリカとソ連もまた気づかぬ内に作品による非難の対象となる。ブニュエルの描く悪意と不思議に感無量。フレーミングも構成も好き。