きえ

サーミの血のきえのレビュー・感想・評価

サーミの血(2016年製作の映画)
3.6
ご無沙汰してました。久々に投稿します。レビューを貯めすぎて書くことが億劫になってました。なので見てから1ヶ月近く経ってしまいましたが亀レビューします。すみません。

ではここから…

映画を通して知らなかった歴史をまた1つ知った。それは私にとって映画を見る意義の一つ。

1930年代のスウェーデンは、ノルウェー・フィンランド・ロシアにまで跨るラップランド(辺境と言う意味の蔑語)に暮らす先住民族サーミ人を劣等民族として差別し、”同化政策”の名の下、民族固有の言語を奪いスウェーデン語を強要するなどあらゆる迫害を行なっていたと言う…

この物語はその不条理で過酷な歴史の中で”己の尊厳”を守る為、想像を超える決断をし生き抜いた1人の女性の半生が少女期を回想する形で描かれている。

作品を見るまでサーミ人については全く知らなかった。トナカイの放牧を生業とし、ナイフでその耳を切り誰の物かを判別する''マーキング”と呼ばれる種族内ルールを持つが、劇中ではこれをサーミ人への侮辱行為として行うシーンがあり胸が痛んだ。

現在ではサーミ人についてスウェーデン人ですら多くが知らないと言う。思えば地球上の至る所で先住民族への偏見・差別は行われていたし今現在もなくならない。日本でもかつてアイヌ人に対する差別があった。日本人として同化させる為に文化や言語を奪いあらゆる迫害を行った経緯は全く同じだ。

この作品はサーミ人を父に持つアマンダ・ケンネル監督が自らのルーツをテーマにしながら、スウェーデンの黒歴史を通して今だ地球上でなくならない人種差別に対し見る側一人一人に思考を与え答えを委ねている。

監督がインタビューで口にした『精神の植民地化』と言う言葉は凄く的確だと思う。サーミ人に対する迫害はまさに精神の支配だったと言える。

ではその主従は誰が決めると言うのだろうか?優劣は誰が決めると言うのだろうか?そもそも人間はスウェーデン語原題の通り『SAMEBLOD』=『SAME BLOOD』…共通に赤い血が流れる同じ人間でしかないはずだ。どの血が優れどの血が劣るなんてないはずだ。なのにどうして人間は優劣を付けたがるのだろう。そこには確固たる根拠などないと言うのに…

原題から英題へは、よりサーミ人のアイデンティティにヒューチャーした『SAMI BLOOD』に変化している。邦題は英題に習えで直訳を付けてきた。サーミ人としての誇りの裏でそれとは真逆の苦悩を味わった2つの血の意味を感じる。

とここまで書いてふと、レビューと言うより何だか夏休みの調べ学習みたいな内容になってたのでこの辺で物語に視点を戻します。

この物語の核はサーミ人少女に見る己への直向きさにあると思う。自分が自分でいる為に全てを捨て去り自由を求めた勇気と強さはどこから来たのか。ほんの10代の少女が生まれた地だけでなく親も兄弟も名前も、その全てを保証のない未来の為に捨てるなんてとても出来る事ではない。作品自体はフィクションだけど、実際に故郷も親も名前も捨てスウェーデン人として生きたサーミ人がいたそうだ。何故ならサーミ人の中にもサーミ人である事を嫌った者がいたからだ。迫害を受け続けた人間が自分の血を呪い嫌ったとしてもそれはある種当然の事の様に思える。特に多感な10代であれば尚更なのではないだろうか。

妹の葬儀で何十年ぶりにかにラップランドの地を踏んだ老婆の回想で描かれる本作はドキュメンタリーな額縁に飾られた牧歌的で叙情的で幻想的な少女像の様に感じた。その少女を演じたのは本物のサーミ人の少女だ。実際にトナカイの放牧を行う環境で育ち今も暮らしていると言う。彼女の持つ本能的な色香と意志を秘めた瞳の強さに只々引き込まれた。勿論芝居経験などないのに自然の中で育まれた感受性が見事な芝居の佇まいとなって魅了した。

その他の出演者も殆どがサーミ人だと言う。妹を演じているのは実の妹だったりもする。現代を生きる彼等はサーミ人と言う事に誇りを持っていると言う。その誇りがあるからこそ演じる事を許諾出来たのだろう。とは言っても非人道的差別シーンの数々は言葉も無かったけど、姉妹に投影されたそれぞれ全く違うサーミ人の生き様はアイデンティティについての再考を私に齎した。と同時に老婆の複雑な故郷や家族への思いを深い深いシワに見た時、フィクションを超えて心揺さぶる重さを感じてしまった。

ずっしりした話ではあったけど、途中の少女の恋のくだりはとても美しく撮られていた。恋は女を綺麗にする同様、少女が美しく変化する様子がスクリーン一杯に映し出されていた。

この作品から感じた事は書ききれないけど見て良かった。
きえ

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