つきかげ

わたしたちのつきかげのネタバレレビュー・内容・結末

わたしたち(2016年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

クラス内のイジメを描く作品は数多くあるのだけれど、この作品の特出ところは主人公の表情であろう。

頭から水をかけられたり机に花瓶を置かれる事もないけれど、明らかな疎外感がある。そんな中、現れた転校生と夏休みを通して仲良くなるけれども、新学期が始まりその転校生も距離を置いてくる。

けれど、ソンは過剰な怒りや悲しみの表情はしない、それが生々しい。そこには何か理由があるのであろうと信じようとする心、認めてしまえばほんとうにひとりになってしまうかもしれない不安、ジアの事が大好きだという想い、まだ幼い女の子はきっと何に違和感を感じているのかも分からずに、それでも感情を思い切り出さないことがベターだとだけは分かっているといった表情かもしれない。

ソンとジアはお互いを大好きである、けれど世界はふたりだけではなく、互いで見せ合う顔とは違う顔を第三者の前でしなくてはならない、そうでなければ、何故なのか分からないが社会から仲間外れになってしまいそうだから、弱みに付け込まれて恥ずかしい思いをするかもしれないから。

そんな、弱さを持ったふたりが向かう結末は、きっと世界は変わらないが、変わらない世界に文句を言い合えるふたりになったような気がして良かった。

イジメの問題は難しい。クラスという小さな単位で、それぞれの体も心の成長のスピードも違う、家庭内の問題は決して話すことは出来ず、話してしまえば同情なんかよりも弱みとして付け込まれてしまう。まだ、多くの子供達がここだけが全てじゃないと割り切って達観することも出来ず、多数派が力を持ち、多数派とは違う自分の思いは意識せずとも仲間外れにならないために潰してしまう、同じであろうとする。そうして、人間のむき出しの残虐性の中、優劣がつけられ、自分より下の人間を作り出してしまう。下にされる子は、その経済力も家庭の問題もたまたま標的にされる不運なども自分ではどうするとも出来ないことなのに、羞恥心にさいなまれ、誰にも話すこともできない。

この恥ずかしいという感情がややこしく、怒りや悲しみを超えて心を支配し、恥ずかしい自分を人に知られたくない知られてはいけないと我慢してしまうのである。
大人はいつも、子供達のイジメに対して、「嫌なら学校に行かなれば良いんだよ」「いつか時間が解決してくれる」「大人になれば大したことじゃなかったと思える」というけれど、それでは恥ずかしさから救えないのだ、その子たちにとって大切なのは「いつか大人になったら」ではなく、「今」なのである、一緒にいじっめ子の文句を言えるたった1人の仲間が大切なのだと思う。

子供の話ではないのだ人間の話なのだと思う、子供であったことのある大人は大人になったことのない子供の気持ちを分かったように話してしまう、子供にとってそれが全てである世界の話をちっぽけな話としてしか捉える事ができない。

イジメはあるのだ。批判では救えない。イジメはなくなっても、子供のうしろめたさや、違和感を取り去ることは出来ない、子供の残虐な攻撃性は僕ら大人と変わらなく、それに対する防御だけが弱いのだ、僕らができることは何だろうか?

イジメのある学校を良くない学校、先生がいると否定せず、向き合うことだ、まずは学校がイジメを隠さず、真剣に悩み、気づこうとして、少なくともイジメが原因で自ら命を落としてしまう子供をゼロにするために僕らが話し合わなくてはならない。

酔っ払っていて、よく分からないことと長くなったことをお詫びします。それでも、皆さんが誰かの話し相手になってあげることを真剣に願っています。
つきかげ

つきかげ