古川智教

愛の喪失/ネヴァー・エヴァーの古川智教のネタバレレビュー・内容・結末

5.0

このレビューはネタバレを含みます

身体は遅延の中にしか現れない。映画監督のレイがローラの身体に出会うのは、ローラが美術館で緩慢な手の動きのパフォーマンスをしているときであり、その後、ローラの後をつけて会話をする際の言葉も途切れ途切れで、何かの後に遅れてやってきている印象を受けざるを得ない。レイのバイクの速すぎるスピードは、はじめはローラの身体から逃れようと、振り払おうとするかのようであったのが、次第にローラと結婚したいと思うにつれて、その役割を一変させる。唐突に差し挟まれる飛行機の映像は、スピードがあまりに速くなるとすべて遅延することを表している。だから、レイは目の前のトラックと衝突するまでスピードを上げていく。緩慢さだけでは真の遅延に到達できないことを知って。真の意味での結婚、身体の結婚を果たすために。結果としてレイは死ぬわけだが、それによってレイは逆説的に不滅の身体を手に入れることになる。レイのメモに残されている「自分を取り戻した」とは不滅の身体を取り戻したという意味だ。そういうわけで死とは停止ではなく、最大の遅延であると言えるのではないか。遅延がこれ以上ないほど引き延ばされた最果てを死と呼べないだろうか。というのも「私」は「私」の死を死後に確認することはできないからであり、いつまで経ってもこれから「私」は死ぬんだという引き延ばされた遅延の渦中にあって、いつまでも死の切迫が続いていくしかないからだ。そして、レイの家の不気味な物音のことをローラは動物ではないものと言っているが、動物でなければなんなのか。それこそ身体でしかないもの=不滅の身体ではないのか。不滅の身体はもはや自他の区別をつけられない。自他の区別が意味をなさなくなるからだ。不滅の身体は生と死、その両方の身体でもある。そして、それは最終的には演劇、パフォーマンスへと昇華されるが、そこまでに至るすべての過程が映画の身体に昇華されることにもなる。
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