YasujiOshiba

13th 憲法修正第13条のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

13th 憲法修正第13条(2016年製作の映画)
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ネトフリにて。ガツンとやられた。

ぼくはこれまでアメリカ映画のなにを見てきたのだろうか。『ロンゲストヤード』(1974)や『ブルベイカー』(1980)、『ダウンバイロー』(1986)に『ショーシャンクの空に』(1994)や『グリーンマイル』(1996)を見ながら、ぼくはいったい何を見ていたんだ。

いまもまさに「ブラック・ライブズ・マター」のスローガンが鳴りひびくのを遠くに聴きながら、『ドゥ・ザ・ライト・シング』の「暑さ」に妙に納得しながら、ぼくは一体何を知っているつもりになっていたのだろうか。

「ブラック・ライブズ」というときの歴史の重みも、その肌とその名前のもとで生きることのリアルの、一体何を知っていたというのだろうか。

かろうじて重なるものがあるとすれば、ナポリの裏路地でナイフを突きつけられた後で、アパートの部屋を尋ねてきた若い自警団の声を聞いたときの心臓の高鳴りや、それまでチネーゼと呼ばれれていた自分が、日本赤軍による爆弾テロのあとで突然、ジャッポネーゼと指差されたことぐらいだろうか。

いや、そんなものではとても「ブラック・ライブ」のリアルを理解したなんていえないはずだ。NYのジャズクラブの演奏を中座してタバコを吸っていただけなのに逮捕されてしまうマイルス・デイビスの気持ちを、どうやって分かればよいのか。

人権なんていうのは、シヴィル・ライトなんていうものは、踏みにじられたものにしかわからないのかもしれない。シヴィルとして暮らすこと、つまり都市に暮らすことの権利をはじめから認められていないような存在を、ぼくらは歴史上いくつも知っているけれど、そのもっとも最近の、そしていまもなお、あるべき権利を蹂躙されているのが「ブラック・ライブズ」であることを、この映画は教えてくれる。

それはちょうど、国民という言葉を憲法に忍ばせておいて、コリアンもチャイニーズも国民ではないと開き直り、そのシヴィルライトをないがしろにしてきた国の構造に似ている。

ブラック・ライブズは、もはやブラックではなくクリミナルであり、クリミナルなのだから、その権利は宙吊りにされてもかまわないのだと開き直る。ちょうど、イタリアでイミグラーティ(流入移民)がクリミナーリ(犯罪者)と同一視されたの同じ構造だ。

実のところ、移民せざるを得ない状況を作り出しておいたヨーロッパが、みずからのやってきたことを棚に上げて、自分の故郷でなんとか生き延びよと言っているようなもの。北米にしても、さんざんその生命を搾取しておいて、突然おまえたちは自由だと宣言したのちに、あらたなレッテルとしてクリミナルを与えることで、搾取の構造を覆い隠したというわけなのだ。

まったく、ブラックだからってその生命を蹂躙していいのか、いいわけないだろ。それが #BlackLivesMatter というわけだ。
YasujiOshiba

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