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ジャッキーと女たちの王国のotomisanのレビュー・感想・評価

ジャッキーと女たちの王国(2014年製作の映画)
4.0
 フランスに対する?逆さまの世界を描いたのはアラビア名を持つ男。この映画制作の翌年早々に「シャルリ・エブド事件」が起きるが、彼はこの制作の時分まで十年ほど同社に在籍していたという。立派に因縁めいているではないか。つまり、これは、フランスに向けられたシグナルなのか?イスラム圏、ムスリムに見せる物と受け取るのがいいのだろうか?観ればたぶんその二世界区分自体の無意味に気付くだろう。
 なお、この映画ではまったく宗教色は示されていないし、ブブンヌ社会は共産国時代のルーマニア、アルバニアや相変わらずな北朝鮮風、独裁者崇拝の色が見える。そうした潤色を施してはいるがそれは謂わば目くらましと感じられる。

 別に国民が平民と上流階級に分れていようと、国民が国王を敬愛しようと、そこに社会問題がなく、国民の意見が吸い上げられ吟味される場があり、無碍にその表明を抑え込もうとする力も働かないならいいのである。ところがブブンヌ世界はその逆さまの世界、国王への崇敬もどこか捏造と無知への付け込みの臭いが感じられる。
 この重苦しそうな状況を芝居するのは黒々軍人と人民服の女に対して真赤なチャドルの女装男である。笑えるかといえば笑えない事もない、可笑しいのだが雌伏する男たちの示すなよやかさが妙に毒っぽく見えて肩透かしを食うようだ。
 この声なき笑いの中で主人公ジャッキー(♂)は「デカ玉の輿」目指して次期国王、現大佐に裏口アプローチを(諸事情芳しからずやむを得ず)仕掛ける羽目になるが、軍人(つまり♀)に扮したジャッキーに大佐は惹かれてしまうという。そのあとすったもんだの末、大佐による母、将軍弑逆、国営お粥スキャンダル、国家転覆騒動を新国王となぜか彼女と配偶してしまったジャッキーは一体で乗り切って、国政一新に取り組むようになる。

 この改革開放路線であるが、ジャッキーのテロリストな伯父、この男が全く「普通の」男で、売春夫で野菜密造家のアウトローなのだが、ジャッキーの「デカ玉の輿」成立を認めるやころりと王党派に寝返る奸物といえばその通りなわけだ。ではこの新路線の転換で彼らの民主化要求はどこに消えたのか?王制下の新国政に満足なのか。民主社会が人間自然の要求だなど監督も根っから信じているわけではないとほのめかすようだ。ただ、要は善政が施されれば貴人軍人政府でもさして文句はないという事か。
 それを指摘するなら、対して新国王もジャッキーと一緒に亡命して物書きで暮らしたいといったかと思えば、全く日和見に、といってもジャッキー大事のために違いない、母親を弑して王国を継いでしまう。
 それは共和制下の王制ではありえないパワーゲームである。そこにはブブンヌ社会の成文法によるよりもゲームメイカーの状況に応じた「最適な」判断で事を決する事に慣れた姿が見いだされるだろう。そして、行き過ぎた官製改革は意外かもしれないが広場内「直接民主制」によって転覆されようとする。その姿はチャウシェスク、マルコスの最後期にみられた様相、その口切の姿である。

 映画の最後、政庁の御立ち台で王と夫君ジャッキーの素っ裸が一体となる改革総仕上げ像にむかし田舎でジャッキーの追っ駆けだった女性が「冒涜だ」を叫ぶのが印象深い。その言葉に今度こそ本当の革命の火ぶたが切られるのかもしれない。しかし、いわば性解放的?文化闘争で始まる変化が政治的な国民の統合に進むのか、今既に伏在している亀裂が露わになり国を分断するのか。
 これを受ける王党にも一部の理想に偏りすぎて全体を捉え損ない、無体な楽観性がもの事を台無しにしてしまう嫌いを感じる。

 監督がシャルリ・エブドを辞めた経緯は知らないが、社のムスリムの習俗や信仰の様子をからかい倒すような品のない戯れ絵の羅列に偏る様子に接し、風刺とは目の前の王党貴族を怒らせ我を失わせ自陣を鼓舞する正面装備ではなかったのか?いつから、殴られる恐れのない後方で酔っ払い相手の戯言を用い遠くの他人を虐めるような悪意に染まったのか?そんな社のありさまに嫌気がさしたのではないか?とあの頃のシャルリの絵への感想から思ってしまう。
 ジャッキーと王の素っ裸の絵、それも自由だろうが、その評価はまちまちで善政を望むだけの庶民が求めるのは表現でも思想信条でも完璧な自由であるとは限らないのだ。それに完璧を望むに至るほど人が成熟するには多くの人生は短すぎ、環境は不適当なままなのかも知れない。