じゅ

光のじゅのネタバレレビュー・内容・結末

(2017年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

バリアフリー上映ってああいうかんじなんだ。まあそれは置いておいて。


自分の感じ取った姿が世界の全てではない、みたいなことなのかなあ。特に、大切で失いたくなかった何かを失った世界は絶望で溢れているように思うけど、希望はさまざまな形でどこかにある、的な。

ある女性は、1つの物について切り取っても自分と他人で感じ取り方が違っていて、世界は自分の目で見えた通りが必ずしも全てではないと知った。
ある男性は、写真家としての生命だった視力を失いながら、その運命を受け入れて「心臓」とまで言ったカメラを捨てて生きていくことにした。


目が見える者は、見たいものだろうと見たくないものだろうと見える通りに見えてしまうから、見たいようにしか見なくなるのかもしれない。
美佐ちゃんは、音声ガイドを付ける映画についての取材で「あやふやなものでなく明確な希望が欲しい」というようなことを言っていた。職業柄、目に見える光景を詳細に言葉で描写する癖(?)があるみたいだったけど、無意識のうちに際限ない視覚情報を取捨選択したり、状況を都合よく解釈しようとしていたかもしれない。
現役の頃の中森さん曰く、写真家は時間のハンターで、小さすぎる自分は大きすぎる世界と向き合っていくのだと。視力を完全に失った後は、覚えていたかったとか、ずっと見ていたかったというようなことを言っていた。世界と向き合うと述べたその実、本当は見たいものも見たくないものも混在する世界の中から見たいものだけを切り出して残しておきたかったのかもしれない。

でも、自分が見えている通りの世界(あるいは、無意識に見たいように取捨選択して切り取った世界)は、どうやら他の人には違うように見えている。あるいは見たがっている。
バリアフリーの会場で行われる結婚式への招待状というただただおめでたそうな物は、受け取った者にとっては別れた妻の結婚式という最高に出たくない催しだった。
美佐ちゃんの母は痴呆症で、父は随分昔に失踪した。そんな母がふらっと出て行った先は山の向こうに沈む夕日が見える場所で、その場所は彼女にとってまだ傍にいる夫が帰ってくる頃合いを教えてくれる場所だった。
音声ガイドは、ガイド者の見え方を対象者に強制する点で時に押し付けがましかった。

自分の見える・見たい世界が全てではない。見え方の個人差と、見たさ故の歪みによって人それぞれ世界が違う形になっている。(それで、たぶんどれも真でも偽でもない。)
一旦、普段身を置いている場所から離れると、いろんな音が聞こえるかもしれない。目を閉じるともっと聞こえるかもしれない。


ある人にとっての見え方の世界には、その人にとっての失いたくないものがある。作中で音声ガイドをあてていた映画のじゅうぞうさんにとっての妻とか、中森さんの視力とか。
じゅうぞうさんの妻とか中森さんの視力が失われるのはまるで彼らの世界の終わりだった。だから、音声ガイドのモニタの人が述べていたみたいに、失われゆく大切な何かを手放さないように縋り付いた。

でもじゅうぞうさん曰く、失われるから美しいのだそう。

全盲になった中森さんを美佐ちゃんが迎えに行こうとしたとき、「探さなくても追いかけなくてもそこに行くから待っていて」みたいなことを言っていたっけか。
なんやかんや2人惹かれあっていたから、美佐ちゃんは中森さんの「視力」相当の新たな存在の象徴になるか。
大切だった何かを失ってもそれが全てではなくて、今まで見えていなかった大切な何かが自ずと見えるようになってくるのかもしれない。

であれば、じゅうぞうさんが妻に巻いたスカーフを手放したように、中森さんが心臓だったカメラを海に放り投げて写真もフィルムも燃やしてしまったように、失われた何かについて嘆くのをやめて違う方に目を向ける勇気を持ってみませんか、みたいな雰囲気を感じた。
じゅ

じゅ