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散歩する侵略者のDONのレビュー・感想・評価

散歩する侵略者(2017年製作の映画)
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これは『リアル 完全なる首長竜の日』でも感じたのだが、SFというジャンルは黒沢清にとって鬼門だと思う。

人間から概念を採取する宇宙人という設定。「所有」という概念を失った者は争いごとの無益を説き、「仕事」の概念を失った者は子どものように遊び呆ける。いわんや「愛情」を失えば、だ。

それらの皮肉や滑稽さは、宇宙人=SFという設定が人間という存在を逆照射するための道具立てであり方法論であることを浮き彫りにする。つまり、総じて説教くさいのだ。

黒沢清という映画作家=原理主義者は、映画の原理である虚実皮膜、幽霊や人知を超えているかに見える“曖昧な”存在者(時にそれは猟奇殺人鬼でもある)を曖昧なまま描くことはできても、虚実の境界線を明確に引くことはできない。宇宙人らしい存在は描けても、宇宙人そのものは描けない。描こうとすると、途端に白々しくなるか、娯楽性の名の下に首長竜を登場させてお茶を濁してしまう。

『アカルイミライ』の地底に浮遊しているクラゲの大群はあくまでクラゲの大群であり、それ以上のものではない。そこに暗喩や意味を読み取るのは観る側に託されている。

だから、本作で最も感心したのは、長谷川博己が宇宙人に憑依されたのか、されていないのか、曖昧なままに決死の覚悟を持って、敵対する地球の侵略者たちへ交信の波動を送る場面だった。自らの信念にのみしたがい、行動する者。それこそが黒沢が信奉しているアメリカ映画(例えばアルドリッチやペキンパー)の登場人物であり、活劇といえるのだから。
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