YasujiOshiba

散歩する侵略者のYasujiOshibaのレビュー・感想・評価

散歩する侵略者(2017年製作の映画)
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涙が、膝が、背中が崩れ落ちる。はっとさせるリアルな身体がよい。

恒松祐里(アキラ)の傾いた歩み、しなやかな蹴り、からみつく四肢。前田敦子(アスミ)の自然な表情のアクロバット。

長谷川博己(サクライ)は背中の向こう側へアゴを引き、胸を張り、走り、吹き飛び、ねじれ、立ち上がり、跛行する。そのかたわらで、高杉真宙(アマノ)の鼻っ柱、華奢な肩。

長澤まさみ(ナルミ)の長い髪とその唇は、その運動を止める瞬間のためだけに、動き続けるのだが、それを見つめる松田龍平(シンジ)のマユは、ずっと動かないままに、動き出すときを待つ。

一方で、言葉たちはどこまでも疎遠に響き、言語のイメージとイメージの言語が混信する。それでも行き交うセリフの数々は、ある意味で過剰に、「概念」(concetto)が「概念する」(concepire)ことの結果として「概念されたもの」(concetto)であったことを想起させてはくれる。すなわち、この身体とあの身体が「共に・掴む」(con-cepire) ことの結果として「共に掴まれたもの con-cetto」なのだけれど、それはイメージではなく、運動と、運動の反復と、反復による強度。

そんな運動の強度として掴まれたものに形はない。輪郭もない。内容もない。もしもそれがあるのだというのならば、この強度はたんなる教説であり、そうであるかぎりの説教であり、だとすれば、なるほど、奪うべきものなのかもしれない。そう、あたかも身体がハビトゥスとしてまとってゆくクセを奪い去るようなもの。

ハビトゥスを奪い去られた身体は、何か突然の欠如として現れる。だから滑稽なのだけれど、それが予想される欠如であるとき、ぼくたちは計算された突然の欠如をスペクタクルとして愛でることになる。あのコンメーディア・デッラルテのように。

もちろんダンテ以降の世界は、もはや悲劇に帰るわけにもゆかず、新たにモダーンなパラダイムを生きるしかない。だからこそ、追放された詩人の老いて荒ぶる魂があのベアトリーチェとの再会に見上げる天界の運動からアモーレ(愛)を読み取る詩聖のコンメーディアは、今ここに、あの「世界の中心で叫ぶ」もののディストピア的なパロディーとして反復されながら、笑えないぼくたちを笑わせようとしてくれているのだろう。

そこにかすかな説教臭さ感じたぼくは、まだ笑えずにいるのだけれど、それでもあの小泉今日子=ベアトリーチェの登場に、つい微笑んでしまったことは正直に記しておかなければならない。
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