ベルサイユ製麺

ぼくの名前はズッキーニのベルサイユ製麺のレビュー・感想・評価

ぼくの名前はズッキーニ(2016年製作の映画)
4.4
“体感時間では人生の折り返し地点は14歳”ってどっかで聞いた事がある。前提やなんやかやと言いたいことはあるけど、まあなんとなくニュアンスは分かる。確かに、子供の頃の一日はやたらに長かった。いくら昼寝しても、絨毯の模様を指でなぞってても寝る時間にならなかった。(昼寝してるので夜も寝られなくて、尚の事…)
特に長く感じたのは、嫌な目に遭ってる時と、一人でいる時。だから子供たちは、べつにする事が無くたって集まって、わいわいと全く無益な事をして大笑いするのだ。そうしてるうちに、自然に分かるようになる。仲間といれば、喜びは大きくなり、悲しみは分担でやっつけられるって事。人の為に、自分の為に、すべき事、すべきでは無い事が。
…と、自分は、そういう事を後天的に知識として知った。ホントにちっちゃい頃だけは友達とワイワイやっていたのだけど、物心つく頃には兄とばかり遊ぶように(遊ばれるように)なっていたので…。兄からは世間をなめる事、他人を小馬鹿にする事ばかりを教わった。残念だけど、未だにその最悪な考え方は脳裏にこびりついている。一概には言えないけれど、家族とだけいると自分の歪みに気付きにくいのではないだろうか。やむを得ないケースも勿論あるだろうけど。
自分は一人暮らしを始めるようになって初めて、自分の心の歪みっぷりを痛感しました。酷い自己嫌悪に陥り、世間とは没交渉気味になってしまったが、お陰で誰かを傷つける事は減った筈だから、まあ良しとしたい。…それでも少し心残りなのは、こんな歪な自分でも、その歪みを活かして、何処かで誰かの為に、何か出来た人生が有り得たのではないか?という事で、これはもうしょうがないので、別の人生での課題にしたいと思います☺︎

ところで、
ストップモーションアニメを目にした瞬間、その内容に関わらず心がチクと痛むのは、映し出されているものが、本当にそのまま存在し続けるものだからではないだろうか。
生身の役者は、役を終えると生活に戻り、またいずれ次の役を演じる。3DCGが如何にエモーショナルでも、彼らは普段数列の姿でデータの中に眠っている。でもストップモーションのアニメのキャラクター達は、その役のために形作られ、(願わくば、だけど)その姿のままで何処かにずっと潜んでいる。チェブもジャックも、ガイコツ戦士も。その姿を想像する時、私は無意識に心の中に潜む“主人公だった頃の自分”に思い巡らしているような気がする。イキイキと動き回り、皆で笑い合って、ケンカして仲直りして、ちゃんと「ごめん」と言えた、今からすればヒーローのように思えるあの頃の自分は、心の奥底で体育座りしたまま琥珀に閉じ込められたようになっていて、決して二度と現れる事は無い。