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三度目の殺人のJAmmyWAngのネタバレレビュー・内容・結末

三度目の殺人(2017年製作の映画)
4.9

このレビューはネタバレを含みます

ラカン的な現実界がなぜ到達不可能なものなのかと言うと、人間は言語によってしか現実を語れないのに、しかし一主体の言語という断片性によっては、現実の全貌を捉えることが不可能だからである。ならば現実を語る主体を増やせばどうかと思うけど、たとえ100万の言語によって多角的な情報が集まったところで、たったひとつの核心は依然として言及されないまま埋もれているかもしれない。

真実はあるし、現実もあるが、そこへ真に到達する事は不可能なのである。そんなアプローチをまともに続けていたら気が狂ってしまうと思うんだけど、我々は我々自身の認識と意志と表象によって、各々の世界を、各々の想像界を構築しながら生きているのである。この辺の事はWikipediaにも書いてある。

本作ではそうした現実界の、つまりは真実の到達不可能性に対して、それぞれの人物がそれぞれの想像界を構築しようとしていて、役所広司はひたすらその営みに寄与する存在として配置されていると思ったのです。それぞれの思い描く想像界が、その通りに実現されるような言語を提供する存在。(すべての描写はないけど)検察も弁護士も、ガラス越しに役所広司を見ていたのではなくて、ある意味ではガラスに映る自分を見ていたのではないか。終盤、福山雅治と役所広司の顔がガラスの反射によって同一平面に共存するワケだけど、この表現なんてモロにそれっぽい。

ただし各々が好き勝手に想像界を構築しているワケではなくて、その営みは我々の意識を左右する領域に沿って行われている。その領域こそが象徴界であり、劇中で言うところの「司法の舟」であり、より一般的には「社会」だとか「共同幻想」と考えてもいいのではないかと思う。意識的にも無意識的にも、我々はその領域に従って何かを求め、あるいは何かを見て見ぬ振りをして、想像界を構築しながら生きているワケである。

役所広司は、法廷においても福山雅治の想像界構築に寄与する言語を提供したワケだけど、その後殺人を否定してしまう行為というのは、それは福山雅治の構築しようとする想像界もさることながら、さらには共同幻想の枠組みからも限り無く逸脱したものであろう。だからこそ福山雅治は物凄く動揺すると思うんだけど、僕が心底感動するのは、役所広司が彼自身の(あるいは誰かのための)想像界を構築し始めるに当たって、共同幻想に対する強烈な"NO"を突き付けている点なのです。

僕自身、仕事においては、「真実なんてどーでもいいから、事を上手く進めればいい」なんてかなりのシチュエーションで思っている人間なんだけど、「事を上手く進める」という概念は、仕事的な共同幻想を拠り所としているワケで。どんなに反体制だパンク魂だなどと思っていたところで、結局のところ僕は仕事という実利的関係性の場においては、共同幻想に対する"YES"を前提として想像界を構築していたのである。

しかしながら役所広司は、「共同幻想も真実もどーでもよくて、オレという一主体の想像界にお前は乗っかんのか、乗っかんねーのか」と言っている。ハッキリ言って滅茶苦茶である。滅茶苦茶なんだけど、この力強さは一体何なんだろうと思う。そしてその後、福山雅治も裁判官に向かって"NO"を突き付ける事になるワケで、彼は実利的な利害関係を捨て去ってでも共同幻想を逸脱し、一主体の想像界を支持するのであって、そこにはプリミティブな人間存在が浮かび上がっているように見えたのです。

到達不可能な真実と、それでも折り合いを付けなければならない想像界の間で、必然的に浮き彫りにされていく共同幻想。それに対して"NO"を宣言するという実利性を超えた選択に、僕は思いっきり殺されてしまったのです。すげーよコレ。すげーッスよ。是枝監督こそ殺人罪確定だけど、僕は殺された事によってなお一層生きれると思いました。


last but not least
供述をコロコロ変える役所広司が、各自の想像界構築に寄与する存在である事は示されているワケなんだから、「器」とかわざわざ台詞にして言わないでいいのに。言わないでいいのに!その点だけ超残念。面と向かって「器」とか言ったり言われたりして無事に済むのは、それはもうシャアの亡霊であるフル・フロンタルぐらいやないですか…。
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