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三度目の殺人のsatoshiのレビュー・感想・評価

三度目の殺人(2017年製作の映画)
4.8
 これまで「家族」を主題にして映画を作ってきた是枝監督による、自身初となる法廷劇。観てみると、これまで自分が見てきた世界が全て崩されたかのような感覚を覚えるとんでもない作品でした。

 今作の制作の発端は、是枝監督が弁護士にインタビューをした際の、「裁判は真実を解明する場ではない」という発言だそうです。劇中でもある台詞ですが、裁判に参加している人間は全員が司法という同じ船に乗っていて、それを期日までに目的地へと到着させることが最大の目的だそうです。なので、本作でも福山雅治演じる重盛は真実など二の次で、「勝利」に拘っています。そして、他の検察も裁判官も、打ち合わせ通りの展開で判決を下そうとします。そこには「真実」はありません。あるのは、各々の思惑を忖度した、「司法というシステムを回す」ための真実です。

 今作では、他の法廷モノとは、視点が違います。普通は視聴者が神の視点を持ち、事件を傍観して、ただ1つの真実に行き着きます。ですが、今作の視点は重盛個人のものが大半です。他にも咲江視点も少しあります。なので、観客は登場人物とともに、真実を推し量っていくしかないのです。

 そんな中登場する犯人の三隅。彼は供述をコロコロ変え、重盛を、そして我々を翻弄します。そして、登場する度に印象もコロコロ変わります。この三隅の印象が映画のトーン全てを決定づけていきます。最初はサイコパスかと思っていると、調査を続けていくうちに、実は結構まともな奴なのかもしれない、と思えるようになります。そしてだんだんと、実は三隅は、重盛と非常に似た考え(=人は知らずに命を選別されている。だから、その命を自由にできる裁判官に憧れた)が明らかになります。

 本作では接見室の、互いを隔てているガラスに代表されるような、人と人とを分断するイメージが頻繁に出てきます。そして、作中の人物は、何かを隔てて会話をしている気がします。三隅とはもちろんですが、図書館?のセパレート、重盛の家のキッチンなどです。このキッチンで、三隅の父はこう言います。「人の心なんて分からない。家族でさえそうなんだから」と。まさにこの分断は、人と人との心の壁のイメージなのだと思います。要するにATフィールドです。得体の知れない三隅とは、常にガラス1枚を隔てています。彼は最も分かりあうことから遠い存在でもあります。ですが、重盛と一瞬だけ、ガラスをとって心を通わせるシーンがあります。

 このように、何もかも不確定な世界に純粋な存在として登場するのが、広瀬すず演じる咲江です。彼女は、少なくとも大人よりは真っ直ぐな目で、「誰が裁くって決めてるんですか」と聞きます。これまでの様々な発言から、もう重盛にも、観客にも「真実」は分からなくなっています。しかし、判決はでます。彼女の存在により、このシステムの不透明さが増します。

 人に裁きを下し、場合によっては死を与える。考えてみれば、こんなことは全てを知っているはずの神にしかできないはずです。ですが、司法は不完全な人間が行い、死を与えている。宗教的イメージも多いので、こんなことも考えちゃいますね。

 中盤、過去に三隅を捕まえた人が三隅を指してこう言います。「空っぽの器のようだった」と。重盛は三隅と接見を重ねるにつれて、「真実」を求めるようになります。そして、最後の接見で、これまで得た情報から、彼なりの「推理」をします。それは観客も予想がつくものです。普通ならここで真相が明かされてハッピーエンドなのですが、さすが是枝さん。安易には終わってくれません。三隅はその推理を聞き、こう言うのです。「駄目ですよ、私みたいな人殺しに期待しちゃ」と。つまり、重盛も、観客も、三隅という「器」に、自分の都合のいい真実を入れていただけに過ぎないということに気付くのです。

 つまり、何も見えていなかったのです。我々も。

 それを裏付けるのが、ラストの演出だと思います。鏡に映った三隅と重盛が重なります。三隅の中に重盛の「真実」が入るも、重盛が離れていく。そしてそこに残ったのはがらんどうの三隅。恐ろしい演出です。

 我々は須らく他人という器に、自分で作り上げた「真実」を入れている。そんなんだから、真実は分からない。だが、それでも司法のシステムは動いている。三隅は裁かれる。これが「三度目の殺人」なのでしょうか。まぁ、勝手な憶測を立てても、所詮、この映画という器に自分にとって都合のいい真実を入れているだけなのでしょうが。

 ラストの十字路が、この何もはっきりしない世界で我々がどう生きるか、を問いかけているようでした。技術系も、俳優の演技も本当にレベルが高く、素晴らしい作品でした。
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