なっこ

三度目の殺人のなっこのレビュー・感想・評価

三度目の殺人(2017年製作の映画)
3.3
この映画は、2017年の流行語“忖度”という語を思い出させる。

忖度されて引き起こされた出来事は、起きたことの責任の所在を曖昧にする。

観客は冒頭の河川敷での殺人場面を目撃したことで、これは“起きたこと”としておかなければその後のstory自体を信用出来なくなる、それでも観客は次第にその人が本当に殺人を犯したのか、起きたことさえも疑いたくなる不思議。弁護人の視点で事件の背景や被害者家族との意外な接点が明らかになっていくに連れ、次第に被告の話に引っ張られていく。その会話劇がなんとも魅力的。

ガラスを挟んで面会室という密室で向き合い話を聞いているうちに、言葉がまるで鏡のように相手に映し込まれていく。一体誰と話しているのだろう。まるで自分と会話しているよう。自分自身が口走ったことをなぜか相手が言う。相手の感じたことをなぜか自分も口走る、それは弁護士にあるまじき発言だったりする。

これはきっと、見る度に違うところが気になって、違う感想を持つと思う。そのくらい解釈に幅がありそうだ。恐ろしいとも言える、何を撮ったのか、もしかしたら監督さえ分かっていないのかもしれない。そのくらい、意図されたことと、観る側が役者の顔に浮かぶことから見つけることとの間に、いくらかの自由さがあるように思えた。

そして、全体的に光が美しい。
空間に暗さのある映画は、射し込む光の美しさを際立たせる。舞台となる建物もモダンなものが多くて素敵だった。

命を弄ぶのは、一体誰なのか。

神なのか、社会なのか、法なのか、、、奪われた命と、引き換えたものの価値を、誰がどう天秤にかけて裁こうというのか。その罪を、その命で贖えと一体誰が命ずるのか。

勝ちにこだわっていたはずの弁護人が、戦術や裁判官の心情を棚に上げて、被告人の心に寄り添い始めたとき、真実だと思って飛びついたものは、果たして、“ほんとう”だったのだろうか。

殺人という罪を犯すものと、犯さないものとの溝はあまりにも深い。けれど、その溝を掘り、囲み、法が治めるとされる場所は、本当にそこで生きるものすべてに優しいのだろうか。その世界で生きることは誰にでも容易いことなのか。
ここにもあそこにも見えない“悪意”がはびこっている。何故だかそんなことを思わされた。
なっこ

なっこ