フラハティ

三度目の殺人のフラハティのネタバレレビュー・内容・結末

三度目の殺人(2017年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

三度目の殺人はいつ起こった…?


ふらふらとした三隅の証言と、真実が歪んでいく事件。

本作が描いていたことのなかで印象的なのは“真実という曖昧な物事のなかで、人が人を裁くという矛盾”。
それ以外でも、本作が題材としているところは多い。
だからこそ本作の結末があまりに曖昧すぎて、どこまでを描けているのかを理解するのに時間がかかる(自分でもあまり噛み砕けていない)。


三隅のことが類いまれな殺人鬼やサイコキラーに見えないのは、彼が抱えている優しさなんだと思う。
「空っぽの器」と表現されていたが、それは表面上の姿で、実際は人間らしさに満たされていた人物なのかもしれないと思う。

個人的に思ったのは、「この世に存在する価値のない人間はいない。」という言葉。
三隅は自身を存在価値がないと語っていた。
でも本当に生きている価値がないのか…?と言えばそんなことはない。
咲江の理解者となり、重盛の考え方を変えたから。

本当に裁かれるべき人間は、のうのうと生き続けている。
確かに人を殺すということは間違ったことに違いないが、間違った生き方をしている人間を野放しにしているというのもどうなのだろうか。
相違したテーマが主張されているため、犯罪者でも誰もが生きる価値があるという主張があるとすれば弱いかな。
裁かれるべき人間が存在することで、まともに生きている人間が苦しみを背負う。

殺された社長がクズ過ぎて、とてもいい人間のようには見えない。
周りの人から好かれていたとか、偽装せざるを負えなかった背景とかあれば百億歩くらい譲ってマシだとは思うけど。
性的虐待については、咲江が真実を語っているかはわからないけれど、本当ならばどうしようもない男(この部分については重い内容なので、曖昧になるような描写はしなかったほうがよかったと思う)。

僕は人間ってそもそも平等であるべきなのに、と思っているタイプなので、本作のように弁護士や裁判官だから全てが正しいのかというとそうではないはず。
同じように、殺人鬼であったとしても全てが間違っているかというとそうではないはず。


人と人とのコミュニケーションにおいて、立場による潜在的な無意識において、機械的なやりとりが増えている。
本作においては弁護士と加害者で、社会的立場の違いがある。
真実を語らせるわけではなく、いかに無罪・減刑に導くことができるのかが大事になる。
真実は探る必要はない。
司法の在り方は、純粋な真実を追求する場ではなく、いかに矛盾を作らせずに罪を軽くするかの作業の場となっているのだ。
人が人を裁くことこそが傲慢である上、平等に人を裁くのは難しい。

メタファー表現が非常に多いが、解釈を幅広くさせるためのものが多いと感じ、その部分がモヤモヤする要因なのかも。
もちろん深さというものがあることには違いないけど、テーマが幅広いため散漫な印象も与えるかなあ。


本作の事件の真相は結局藪の中。
三隅しかわからない。
でも重盛が語っていたことが真実なんだと個人的には思っている。
それくらい人を信じたいしね。
自身の娘と咲江を重ね、父親のせいで苦しみを背負っている彼女を救いたかった。
自分の人生の償いを咲江に託した。
あんな良い子が苦しむ必要はない。
ってまあ役所広司の雰囲気にヤられてる。笑
信じたいものを信じる。
人生はそれで良いんじゃないでしょうか。
変な方向にいかないようにすれば。

光の中から現れた三隅は、自分の人生に後悔を感じているようではなかった。
自分を知ってくれる人間を求めており、遂に現れたからだ。
その立場が重盛であり、蔑ろにしていた重盛の娘との関係を見つめ直してほしいと三隅は無意識に思っていたのか。


運命とは非道である。
命は選別され、望まずとも生きている人間、生きることを望んでも死んでしまう人間は間違いなく存在する。
社会のシステムが間違っていると感じても、変わることはない。
利己的な生き方ばかりであれば、人と人が分かりあうことは難しく、立場が違えば理解しようとすることすら止めてしまう。
公的な場である裁判がそうであるならば、弁護士や裁判官という存在はどうあるべきであるのか。

こうして三度目の殺人は執行される。
フラハティ

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