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羅生門のgejiのレビュー・感想・評価

羅生門(1950年製作の映画)
3.3
牟子ってヒジャブみたいだなと思った ポータブルプライベートスペース

「女が欲しくなった 女を奪おうと思った」 女は物、所有物という価値観
女の所有権をめぐって男どうしが殺し合う筋書きは多い

女が言う「恥」は貞操の喪失のことだろう

「女性のセクシュアリティは男性の財産であり、それを侵害することは当の女性に対する凌辱だけでなく、それ以上にその女性が所属すべき男性に対する最大の侮辱となる」という家父長制の論理

レイプされたらされた方の「恥」になり、された方が「売女」になる論理 レイプした方の罪は問われない
女の「恥」に対する夫の「冷たい目線」「売女」呼びは、レイプ被害者へのセカンドレイプ レイプされて「自害しろ」はやべえ
夫は妻を奪った盗人ではなく、盗人に犯された妻の方を憎んでいる 「盗人の罪は許してもいいと思った」レイプした方の罪は軽い
家父長的モノガミーを成立させるための論理

「これほど気性の激しい女を見たことがなかった」=女は本質的に弱く気性が大人しい生き物だという言説
「この弱い愚かな私」「しおらしげに泣く」「所詮たわいもない女」設定もそれ
ものすごい女性蔑視

そして「女は涙でなんでも誤魔化すから用心しなきゃならねえ」というのも、女の話は嘘で信じるに値しないという言説
羅生門での会話=身分の高い女の話よりも盗賊の男の話の方が信じられる
レイプ被害者の告発がウソだと誹謗中傷を浴びるのと同じ論理

映画としては3人のナラティブがそれぞれ食い違うところに、各人のエゴが現れてるっていう話なんだろうな
しかし性暴力に関する3人のナラティブが全部上記の家父長的パラダイムに基づいてるところに脚本の時代的な限界がある

題材は『藪の中』だけど、飢饉の時代のエゴの話という点では『羅生門』
結末は、原作のほうがエゴのまま終わってるけど、映画の方は利他も描かれる 
原作には登場しない僧侶というキャラクターが、利他の要素を強調しているよう

映像の撮り方は好き
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