甘口パンダ

羅生門の甘口パンダのネタバレレビュー・内容・結末

羅生門(1950年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

『ユージュアル•サスペクツ』鑑賞後、語り手の回想に虚実が入り混じる手口(笑)について思いを巡らせていて、急に思い出して観たくなりました、数十年ぶりの『羅生門』。

一番強烈なのは、あからさまにラヴェルのボレロ風の映画音楽にのせられて展開する、娘の告白。情念の炎。これが怖い‼︎

ボレロの主旋律と副旋律の絡み合いは、まるで、弱さとしたたかさ/嘘と真実/怒りと悲しみ、みたいな対称的な事柄が絡みあって膨らんでいくようでした。

原作の『藪の中』に、黒澤明監督はその場にいたという男の告白をつけ加えていますが、この男も真実を話していない(と思う)。なんなら1番確信犯的に嘘をついている気がする。
この男が藪の中を分け入って奥へすすむ時にもボレロが使われているから、ボレロのお陰で余計にそういう気分になったのかな。いやいや、ケヴィン•スペイシーのせいかも!笑
ラストシーンの笑みはなんなんだ(まさか、売りに行かないよね)⁉︎

多襄丸も 娘も 死んだ夫も、皆、わざわざ嘘をつく道理はないと思えるのに。
なのに、もし嘘をついているならと考えると、ひどく自分本位の嘘をついたようにも思えてきます。しかも各自のなかでは既に、嘘ではなくなっていそう。

そして、その輪のひとつ外にいる僧侶も、嘘はついてなくても自分だけ何の責任も負わず安全な位置で善人ぶっているように思えて、これも身勝手でずるいように思えます。それが良いとか悪いとかじゃなくて、僧侶も結局は自分のために人の善意を信じたがる、という生々しさがそこにあった気がします。



もう、誰が嘘をついていて何が真実かなんて気にならなくて、ただただ、人間は業の深い生き物だって、こういうことを言うのかなと思う映画。
原作よりも生々しく、人間をみた気がしました。
甘口パンダ

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