PaoloSorrentino

オン・ザ・ミルキー・ロードのPaoloSorrentinoのネタバレレビュー・内容・結末

2.9

このレビューはネタバレを含みます

エネルギーのカオス

オープニング
豚を屠殺し、その血をバスタブへ注ぎ、その血の池にアヒルがダイブし、血を纏ったアヒルに蠅が集る。そのすぐ横で激しい紛争が行われている。銃弾が飛び交う場所で、そのこととは無関係に料理を続ける人たち。そんな死が隣り合わせの地で、とりわけ紛争にも死にも無関心でミルクを運ぶエミール。彼は自分の死にも紛争にも全く意識が向かないという意味では人間よりも動物に近い存在。彼の周りには彼を愛する美女がいるが、常に傍にいるのは動物たち。人間たちよりも動物たちとともに生きているような男。

ただ刺激的な画を撮りたいだけなら、アヒルが血の池にダイブする所で終わる。しかしクストリッツァ監督はダイブした後に、血まみれになったアヒルに群がる蠅までも撮る。そこに監督の映画に対する誠実さを感じられる。このシーンだけで初見の監督だが期待を持つことができた。

彼にファム・ファタールが現れ、死の逃避行が始まる。誰が何のためにしているのか、いつ終わり、そしていつ再び始まるのかも分からない紛争のメタファーのような三人の男が死ぬまで追いかけてくる。
そして、誰よりも死を意識しない、命に執着のなかったエミールだけが生き残る皮肉。

生き残ってしまった男は15年間ただ石を積み続けた。地雷で覆われた地を死の浸み込んだ白石で埋め尽くした。エミールがモニカのいない世界の平和を願ったとは思えない。相方のロバまで喪ったからミルクを運ぶこともできず、ただそこにあった石を運んだに過ぎない。その途方もない行為にエミールの失った愛の大きさ、悲しみの深さ、モニカへの想いの強さを感じる。

余りにも愚かな紛争への怒りが根底にある。その紛争をしているのは動物ではなく、人間。
人間の愚かさにどんなに嫌気が差しても生きている以上諦めるわけにはいかない。
クストリッツァ監督は映画をつくることで闘い続けている。
観た者は思考停止せず、ともに闘うことを要求される。

この映画では動物たちが準主役。紛争地で人間と同じように生きている存在。数多の戦争映画で無数の人間が死んでいく。その光景が当たり前のものになり過ぎた人たちは人間の死ぬ姿よりも動物たちが殺される姿に胸を痛める。動物たちが血を流し悲鳴を上げる光景に目を背けたくなってしまう。これは自分の目と心が麻痺をしている証拠。だからクストリッツァ監督は作為的に本来人間がする役割を動物にさせることで、気付かせようとしている。
戦争で人間が死んでいくのは当たり前のことで日常的なことだという情報を余りに多く無意識的に受け続けてしまったことで、戦争による死を当然のこととして受け入れてしまう一種の洗脳された状態にある。このことに危機感すら抱かなくなることが最も恐ろしい。

クストリッツァ監督作品は今作が初見であったので、過去作との関連や共通するモチーフを知らないので、なんとなく他の監督作を連想した。
ロバに乗り傘を差す男。血の池。無数の羊を爆破などのシーンは『エル・トポ』を連想
エミールのキャラクターや哀しみは『シュトロツェクの不思議な旅』を連想した。

やはり心に残る映画にはエネルギーのカオスがある。
PaoloSorrentino

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