晴れない空の降らない雨

サスペリアの晴れない空の降らない雨のレビュー・感想・評価

サスペリア(2018年製作の映画)
4.2
 正直自分みたいな映画偏差値の低い人間には難しい映画だったが、とりあえずはインテリなフェミ映画と言っても差し支えないと思うので、まずはこの側面についてざっくばらんに思いついたことを書き散らしてみよう。
 現代フェミニズムのなかには、「魔女」に自己同一化するラディカルな一派があるというが、本作はそれを汲んだものだろう。ここで「魔女」という存在は、キリスト教、合理主義(科学)、男性中心主義といった近代・ヨーロッパの主要素すべてと対立する存在として称揚されることとなる。
 アンチキリストは、本作に通底する肉体賛美がすでにそうだが、アーミッシュの親玉みたいな集落やそこの実母から主人公が逃亡する序盤で、ご丁寧に教会の金を盗むまでして明示されている。アンチ合理主義は、「正常」の番人たる精神科医の男性がパトリシアの訴えを妄想と決めつけながら、そこに整合性ある理由を当てはめていくところに現れている。アンチ男性は、いかつい警官が操られ、短小のペニスをあざ笑われる場面が強烈だ。
 さらに、基本的にホラー映画というのは、女の子を怖がらせてキャーキャー叫ぶのを楽しむサディスティックな男性的嗜好が強く、オリジナルは未見だがそういう作品だったと聞いている。この映画は、ジャンルの定石をひっくり返している点もフェミニスティックといえる。
 そういう視点でみると、ティルダ・スウィントンが何役も掛け持ちしているのも、女性が男性ほど固定した自己同一性をもたない存在であることを表現したかったのかも、といった解釈もできる。
 
 しかし本作はより進んで、こうした女性共同体としての舞踊団もまた内部では個人崇拝・抑圧・搾取・粛正がはびこるという組織病理を免れないことを示し、魔女集団の内ゲバと下克上を描くストーリーを用意している。
 それ自体かなりキワモノなダンスに与えられた「Volk」(民族)という不穏な名は、この魔女集団とナチスが結びつく可能性を示唆していると受け取れよう。魔女たちにとって「民族」とは女性のことであり、ドイツにとってはアーリア人のことである(アーリア人証明書に妻の生死を左右された精神科医がここでつながるわけだ)。
 他方の左翼は左翼で、劇中で過激化の果てのフィナーレを迎えるわけで、やはりこの3者の閉鎖性・独善性に通底する問題を映画は主題化したいのだと思われる。そうして映画は、ナチスやホロコーストの記憶、東西冷戦、戦後のアメリカとの関係性、ドイツ赤軍による資本主義への抵抗といった当時の西ドイツの社会情勢のなかに、魔女たちの舞踊団を位置づける。
 
 画面は全体的に殺風景といってよく、ゴアシーンを除けば派手なところは少ない。また、唐突で雑なカメラワークやカッティングなどがいちいち不快な刺激となるうえ、肝心のダンスシーン(主人公のリハーサルと《民族》)さえもブツ切りにされ、地下での惨劇と並行的に描写される。また、サバトの様子は赤いフィルターをかけられ、スプラッタな描写に対するぼかしの役割を果たしている。映画は、このようにして観客が今ここのイメージに没入しきらないように注意しているように思われた。
 また、本作は映画それ自身の(社会的)役割に意識的とも思われる。まず、夢と鏡は映画と共通点がある。劇中魔女が見せる夢は自分のものでない記憶であり、鏡は別アングルからの視覚として、ともに今ここにおける知覚を相対化する。これは、ダンスが今こことの完全な同期を行うものであることと対照的だ(そして前述のとおり本作はそれを決まって切断する)。隠し部屋に並んだデスマスクもまた、人間の一生分の時間を超えた記録・保存という意味で、映画と通ずるものがある。何より、生き続けてきた魔女たちの存在そのものがそうだと言えるわけだが、エピローグで披露される透視能力によって、今ここからの知覚の離脱は頂点に達する。それが映画の技でもあることは、壁に刻まれた名前をカメラだけが見つけることができることに表されている。
 
 微妙だったのは、トムヨークと、ドイツ赤軍の絡め方と、さすがにもうちょっと盛り上げてほしかったサバト。