140字プロレス鶴見辰吾ジラ

バトル・オブ・ザ・セクシーズの140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

4.0
”フェアプレー”

男と女のテニス対決!
これはただのショーではない!
これはただの闘いではない!
闘いでは満たされぬ自由があった…

男が悪者で女性が正義という単なる女ヒーロー実話ならば、「スカッとJAPAN」でも見てればいい。あくまで対等でフェアのために立ち上がった映画であり、フェアに接するということに対して、あまりに不均衡な事態を生み出すことがある。あくまで本作は”フェア”を描いていて、男であれ、女であれ、自分自身を”自分らしく”そして”自由意思”をもって生きることの難しさ、人の脆さに向き合った映画である。「リトルミスサンシャイン」「ルビースパークス」の監督作品であることから、滲んでくる”自由意思”に対しての渇望や危うさや、一筋縄ではいかない事象が存在していると思った。

劇中で、ビリー・ジーン・キングは男女のテニス大会の賞金に対する格差に平等性を訴える。決して女子至上主義ではない、ただ女テニスプレイヤーとしての意義を述べている。しかしある存在の登場により、それは当てはめられた像なのでは?という疑念や迷いが生じていく。

劇中で、ボビー・リッグスは、男性至上主義を声高に叫ぶ。「女は寝室とキッチンだけでよい!」と。しかしそんなものは暴言であり、世間から非難されるはずである。しかし何故にボビーの暴言や下品なパフォーマンスの数々に心を踊らされるのか?それはフェアであろうと気遣いするがゆえに、自由は束縛されているからなのではないだろうか?

ビリー・ジーンの迷いと、ボビー・リッグスの自分らしく振舞いながら妻と息子に束縛されているように見える2人のシーソーゲームが、フェアに作られているがゆえに男女性差別でなく、”自分らしさ”に誠実であることへの重要性と、自分の意思を優先すれば、どこかでアンフェアな事象が描いてしまうという脆さが垣間見える。

ビリー・ジーンを献身的に支える夫との関係性と、本作のファムファタールと化した美容師の出会いと髪を切るシーンの不気味なロマンチックな演出は必死なバタ足を続けるか?そのまま身を任せて沈んでいくか?と問われて自分らしさを優先していくシーンがある。ここで夫の存在を思うと、これが女性が正義のスカッとJAPAN映画でないと思えてくる。

対してボビー・リッグスのギャンブル依存で、暴言たれるオッサンかと思いきや、息子との他愛のなくはしゃぐシーンやギャンブル依存の告白の会で、堂々とギャンブルに対する持論を吐き散らす。悪いヤツで終わらせず、自分らしさを貫くことで、妻にアンフェアが及ぶが我々に対して応援歌のような言葉を吐いてくれる存在となる。女性差別発言がセンセーションは、実は男性の権利が女性のために制限されているからではないだろうか?と本質的に考えてしまう。

誰かをフェアにしようとすれば誰かはアンフェアな気持ちにさせられるのだと思って、2人の対比構図を見ていくと、対決が終わった後の勝利と敗北の奥行が物悲しく胸に刺さっていく。互いが互いの道を行くために、ときに道を譲らず、ときに道を譲っていくことで、男女のみならず俗にいうLBGT問題は解決していくのだろうと思うけれど、人と人がひしめき合う世界の中で摩擦係数0のフェアな道のりは本当に作れるのだろうか?

「ウサギとカメ」のような教訓めいたクライマックスの対決に向けて加速していく互いのアンバランスなシーソーゲームは、闘いが決した後も、それぞれの人生の中の”自分”という舞台から降りることなく続いていくように思えて胸が熱くなった。そして同時にスティーブ・カレルの役者として史実存在の再現度に私の股間は熱くなった。