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バトル・オブ・ザ・セクシーズのdojiのレビュー・感想・評価

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競争原理というのはもちろん男性優位の社会が生み出した、資本主義的な価値観のもとにあるものだと思う。それを覆すために、この映画では競争原理の中に女性自身が飛び込み、その勝負に勝つことによってなにかを変えようとする。

けれど、勝敗ががついたあとに感じてしまうのは、"男性vs女性"という勝負の、まったくもって意味がないということだった。コートに立つふたりは29歳の女性と55歳の男性でしかなく、テニスというプレイにおいては、ふたりの人間の勝負でしかない。

ウーマンリブというおおきな大義を背負いながら、ビリーはひとりの人間として、自らの性というものに向き合う危機に直面される。一方ボビーは、父親、夫、そしてかつての栄光が薄れつつある一テニスプレイヤーとして、その地盤が崩れそうになる危機に立ち向かうために、勝負にすべてを賭けようとする。それぞれが女性、男性としての運命に直面しながらも、メディアをはじめとする社会は、とても簡単な図式としての"男性vs女性"にすべてをはめこみ、現象としての渦を生み出そうとする。

もちろんその大きな渦によって、今日に至るまでの女性の権利といった問題を考える上での重要な歴史的事実として刻まれることになったのは言うまでもないことなのだけれど、この映画は、果たしてはビリーとボビーは、何に勝って何に負けたのだろうか? という問題を、明言することはなく、丁寧な心情描写で描いていると思う。

"男性vs女性"における男性のなかにも、年齢の違いもあれば性的志向の違いもあり、女性においても同様にすべてが一様化されることなんてない。男性優位の社会においては、もちろん女性の権利が軽んじられていたということだけではなくて、同様に、そういった優位とされる男性観から逸脱した男性を阻害することにもつながっている。男性優位の社会で傷ついているのは女性だけではなく、周縁にいる男性の居場所も奪っている。

社会的地位の低い女性として、そして社会の周縁に追いやられようとしてしまう男性として、ビリーとボビーは世紀の勝負に臨み、そこに勝敗という結果が生まれてしまう。でも、この”女性の勝利”はビリーにとっての勝利では必ずしもない。そしてこの"男性の敗北"は、ボビーにとっての敗北とは必ずしもイコールではないはずだ。父として息子から見放され、のちに妻との絆を取り戻すボビー、そして夫との関係を解消し、女性との関係性を築くことになるビリー。そのふたりが、"男性vs女性"という単純な図式を背負ってしまったことが、ある意味ではひとつの悲劇でもあったのかもしれない。この映画では、人間の性というものの複雑さと、決して単純化などできない人間の葛藤を、とても丁寧に描いていると思う。そう思うと、"Battle of the Sexes"というタイトルが、とても重層的な意味を帯びてくるように思えている。試合を終え、涙を流すビリーと、静かにうなだれながらも、ふたたび妻のまなざしを感じるボビーの姿から、このふたりは敵なんかじゃなかったはずなのにと、とてもやりきれない気持ちになってしまった。

ホテルカリフォルニアのような色彩設計や、70年代的な衣装や美術はどれもすばらしかった。一人ぼっちでうなだれる登場人物を鏡ごしに撮るショットなど、カメラワークも含めた心情描写も見事だったと思う。
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