岡田拓朗

南瓜とマヨネーズの岡田拓朗のレビュー・感想・評価

南瓜とマヨネーズ(2017年製作の映画)
3.7
ツチダ(臼田あさ美)、せいいち(太賀)、ハギオ(オダギリジョー)のキャスティングが完璧。
共感できる点と共感できない点が入り混じり、「好き」という感情の脆さやそれを相手に受け入れられるように表現することの難しさ、向き合いたくない(見たくない)ことに蓋をしていつの間にか溝が深まっていく様、とことん恋愛の多様な面を突き詰めようとしている作品と言える。

その中で一番共感できたのはハギオ。
好きという感情は「一緒にいて楽しいと感じるときは湧くけど、一緒にいるのが当たり前になったとき、その感情を持ち続けられるかはわからない(、だから好きを押しつけてその人を縛りつけるのはナンセンスである)」という恋愛観そのもの。
そこに「好き」という感情の脆さを感じたし、当たり前や変わらないことが当たり前になっていくことは、どんな状況であれ怖いものだと感じる。
というよりも、だからこそ、一人の時間もしっかり持って、自身のみでも充実させることができるようにしておいた方が、感情や気持ち、状況が変わったとしても、他者にすがらずに生きていける。

変わらない日常が続くことは、辛いとまではいかなくとも、決して楽しいや充実している、満足している状況になることが難しいと思う。
そんなときは何か環境が変わって欲しいとどこかで思っていたり、実際に動ける人は静かに環境を変えようと行動しているものだという前提は、表に出ていないだけで、誰しもにある目に見えないものではないか。
そういうときに、忘れられない人とふとしたきっかけで出くわしてしまうと、自身を制御できなくなり、止められなくなり、誤った方向に向かいつつ、その葛藤に揺れ動くことになる。
それがよいのか悪いのかを語り出すとキリがないが、それが感情を持った人間という生き物である。

ツチダはミュージシャンを目指しているせいいちが好きだった。
お互いにはお互いがいないといけない(自立できていない)この関係は、やっぱり崩壊するのも早い。
ツチダは、せいいちに尽くすことで、自分を向いてくれることへの安心感を得ようとしていて、だからこそその状況が変わったときに、ただただミュージシャンを目指すせいいちになんやかんやで戻って欲しいと思うようになる。

せいいちがツチダが隠していたことに踏み入ったことで、せいいちが変わり、それが2人の関係の悪化に繋がってしまった。
ツチダの「好き」の表現が不器用で、せいいちも適切にそれを受け入れられるような感じでもなくて、そこに恋愛の難しさを感じる。
そもそも、せいいちを好きであるというより、「ミュージシャンを目指しているせいいち」が好きだったようにも見えた。
気づかないうちに溝はどんどん深まっていき、結果別れることになる。

ツチダとせいいち、ツチダとハギオ、どちらもが別れてからの関係の方がいいように見える。
程よい距離感で、2人でいることが当たり前でなくて、それぞれの「好き」の押しつけがない。
1人で生きていけるからこそ、過度に干渉しないしされない。

最後にせいいちが曲を作って歌えたのは、きっと逃げることができなかったからこそ生まれたものであって、別れることでそれが聞けたツチダは一番見たかったせいいちの姿が見れたことに涙した。
そう、これを見るために尽くしていたんだなと、そして自分の気づいていなかった拘束は、間違えていたのかなと、昔を振り返るように。

恋愛や結婚、夫婦関係を続けることにおいて、程よい距離感は意外と大切な気で、互いに縛らない関係が必要であると思う。
基本的には互いに縛ることをせず、1人1人の人生を充実させながら、2人共通で分かち合えることがあり、それぞれの人生も楽しめる関係、それが何とも幸せな恋愛、夫婦関係なんだろうなーとふと思い巡らせる。
岡田拓朗

岡田拓朗