misty

南瓜とマヨネーズのmistyのネタバレレビュー・内容・結末

南瓜とマヨネーズ(2017年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます


全く地に足がついてない人たちの、全く地に足がつかない生活。だけど生活とは地に足をつけて生きていくということで、多少なりとも未来のことは誰だって心配で、安定がほしくて、欲を言うなら自分のことを認めてほしい、すごいねと言われたい、ありがとうと言われたい、愛されたい、幸せになりたい。
だけど同時に、この人とだったら幸せになれるかもと思う前に、ただただ、この人のことが好きだというたったそれだけの気持ちで生きられる時間もある。それだけで幸せな時間がある。あった。そう、「あった」。自分の中でその時間が通り過ぎてしまったことに気づくとき、思うとき、そこに「生活」はある。生活は全てを押し流していく。
シンプルな、ごくシンプルな気持ちだけで構成されている時間は「今」という言葉で言い換えられるかもしれない。今このとき、たったこれだけ、この一瞬、それでいいの、それが全てなの。
無職の男に転がりこまれて部屋はどんどん汚くなっていくし、お金は足りないし、夢を見ても見ても裏切られるし、そんなところに今度はまたも地に足がついていない元彼と再会し、また「今」を感覚を求めてそっちに引きずられていく。だけど戻れない、時間はどうやったって不可逆で、その分だけ生活に押し流されて自分の位置は変わってる。変わったことに、涙が出る。

「そんなひとどこにいるの」
アパートを出て行くことを告げられて、彼女は真っ赤なタオルで顔を覆って泣き崩れる。彼女が着ていた鮮やかな水色のTシャツ。そのコントラストに目を奪われた。あのカットがとても好きだった。部屋に差し込んでくる光はとても照明によるものとは思えなくて、全くの自然光のように見えた。
色が美しい映画だと思った。それこそ90年代の、写ルンです的な色の出方。見えたものだけを見えた分だけ映します、見えないものは無理には映しません。ピントも無理には合わせません。という潔さ。

絶対売れねえよ、自分が抜けたバンドのメンバーにいちいちうるさい今彼。でもそれにこだわるのは、彼の中に「売れる=認められる」という図式がどこかにあるからで、彼は認められたい。レコード会社の戦略がどう、そんなのやりたいことじゃない、文句を言いつつそれが「認められる手段」のひとつであることにも気づいている。だからしんどい。
やって「あげてる」という言い方しかできない彼女。「あげてる」ことが生きがいで、それを取られるとどうにもならなくなってしまう。求められることに飢えている。わたしがいなきゃと思いたい。彼女も認められたい。君だけだよと言ってほしい。だけど誰にも言ってもらえない。
「好き好きばっか押し付けてきたりさ」「お前のことそんな好きじゃなかったけど」とか平然と言っちゃう元彼。せいぜい前後2〜3時間さえ楽しければそれでいい。楽しくなくなったら別の場所に移れる。こんな人が自分しか見えなくなったら、自分のことで心かき乱される瞬間があるならどんなにいいだろうな!と、思っちゃうのもしかたない。

わたしとはあまりに生活のしかたが違う、わたしも同じ27歳なのに、でも27歳でもまだこんなしょうもないことをしてもいいんだ、こんなことで悩んでもいいんだ、と、なんだか楽になったような気もした。羨ましくもなった。しんどくもなった。

臼田あさ美の、芝居か素なのかわからないぎりぎりのラインに常に立っているかんじとてもよかった。ラストシーンの泣き方は、理由もなく、わかってないのに「わかるよ」と思ってしまう。そういう泣き方あるよねと思う。
せいちゃん、いるいるこういう人。歌声、とっっってもきれいだった。
オダジョー、地に足がつかない男をやらせたらやっぱり優勝してる。こいつ絶対金返さん奴やん、でもすてき。やっぱりすてき。かっこいい。クソ野郎だけどそれを補って余りあるオダジョーの美しさ。

せいちゃんもハギオも、このふたりじゃなければムカついてぶっ飛ばしていたであろうクソ野郎だけど、このふたりだったからこそぶっ飛ばせない。いるよね〜こういう人…と、思わせられるのはすごい。ぴったりはまるリアリティというか。

原作未読だけど、でもこれは限りなく原作の空気なんじゃないかなとは思った。今度読んでみようと思う。
色が美しい映画、生活の一コマがめちゃくちゃ凝ってる映画。あと可奈子ちゃん、めっちゃ好き。
misty

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