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南瓜とマヨネーズのkunicoのレビュー・感想・評価

南瓜とマヨネーズ(2017年製作の映画)
3.6
魚喃キリコの原作がサクッとしていたので、どんな映画になるのか楽しみに鑑賞。

今までに観たことのない冨永監督だった。
そう、凄くしっとりと、艶っぽく、大人な雰囲気で纏められていて、間違っても「ローリング」を撮った監督だとは思えなかった。

私はツチダという女が死ぬほど嫌いだ。
必要のない犠牲を払って男を支えているつもりになっている、ツチダ、お前が好きなのはお前だ、お前はお前のことを誰よりも可愛いと思っている。
ヒモを飼う女は、男を養う立場にある自分のことが好きだ。
養っている男の自立心を削ぎ、それに気づかず私ばかり頑張っていると主張する。
全てのヒモ飼いに当てはまるものでは無かろうが、ツチダという女は確実に下げマンなのだ。
気付け、気付くんだその現実に。

そして、何故あんなにもセイイチの才能を信じるのか。
仮に私に映画監督の恋人が居たとしよう。私は彼の作る映画が好きだ。才能を感じる。作品が好きだからこそ付き合いたいと思う。しかし我が身を汚いおっさんに3万そこらで売るほどに彼の才能に心酔などしてはいない。するわけない。仮に彼が自分の夢に見切りをつけ「オレそろそろ働くわ」と言い出したとしよう。それでいいじゃない!止める権利がどこにあろう。

ツチダは、セイイチの人生の選択肢を狭める。
彼女の愛は重く、もはやそれは自傷行為にも似ている。
痛い痛いと血を流しながら、それでも自分の行いを献身的な愛の証だとセイイチに押し付けるのだ。
いや、あたしが男なら逃げ出すよ馬鹿野郎!!!!

そんな中、ツチダは昔の男、ハギオに再会する。
この男になら何をされても構わない、それくらいに病的なほど惚れ込んでいる。
彼が星の数ほど抱いてきた女の内の1人、決して彼女の称号は手にできないが、そういう男だともツチダは知っている、その自覚がある。
セイイチが居ない間にハギオを家に呼び寄せ、挙げ句の果てには「セイちゃん振ってくれないかな、、」と呟く。
念願叶って振られるも、どういう神経なのか被害者顔で泣きじゃくる。
セイイチの為に稼いだ金も、勢いで捨てたものの、ハギオのためにそっと財布に仕舞うのだ。
この女に友達はいないだろう。

原作と違うラストには希望が持てた。
ツチダとセイイチは、一緒にいてはいけない、もっと他に出会うべき人がいる、そう強く思えたからだ。
いつか元サヤに戻るかもしれないが、少なくとも今ではない。

ハギオをオダギリジョーが演じると、どうしてあんなにも色っぽく、抗えない魅力が溢れるのだろう。
そしてとことんクズだ。
ツチダとセイイチが住むアパートのすぐ近くの居酒屋で、堂々と「ハギオ、どうっすか?」とのたまいながらキスをする(すいません妊娠しました)
こちらがポーっとしているのも束の間、早速現金をせがみ出す。
しかも、その現金を渡す時しゃがみやがるのな。
女から金を渡されてるところを見られたくない、そんなみみっちいプライドが見え隠れして今こそカラオケのリモコンとシャンパンボトルで頭かち割ってやろうか。

最低、大好き、最低、の繰り返しが、ツチダがハギオと決別する場面。
全てを見透かされている。
本当か嘘か分からないタチの悪い話を披露され、決別の意を表明するとこちらの気持ちを揺らがせる様な発言をしてくる。
もう二度と会いたくない。
でも会ってしまったら自分がどんな衝動に突き動かされてしまうか分からない。
拭いきれない不安はあるが、この男が自分の元で落ち着く未来など夢見るだけ愚かだ。

ツチダの恋愛観が、ここまでに歪んでしまった理由が気になる。
何を見て、何を感じて育ったらこんなことになるのか。
彼女の家庭環境に秘密があるのか。
その秘密が解き明かされるのと同時に、彼女が頑なにズボンしか履かない理由も明白にされるのか。
ツチダ、という生き物に色々と考えを巡らせてみたものの、きっと分かり合えない部類の人間なのだろう。
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