小一郎

乱世備忘 僕らの雨傘運動の小一郎のレビュー・感想・評価

乱世備忘 僕らの雨傘運動(2016年製作の映画)
3.9
テアトル新宿で開催の「日本・香港インディペンデント映画祭2017」で鑑賞。未知の香港インディペンデント映画と話題の日本インディペンデント映画を2本立て(短編はさらに複数)で上映し、併せてトークイベントも実施する企画。本作目当てで初日鑑賞。

うーむ、本作を『ケンとカズ』と組み合わせた理由が、「若者を描いているから」みたいな説明を聞いてもイマイチ良くわからなかったけど…。ガチで比べるなら『わたしの自由について SEALDs 2015』だと思うけれど、上映時間が長いからかな? まっ、いいか。

2014年、香港で起こった「雨傘運動」を始めから終わりまで記録したドキュメンタリー映画。2017年3月の香港トップを決める行政長官選挙について、中国共産党が新たな選挙制度を発表したのに対し、香港の学生たちが「(中国の体制に批判的な)民主派の立候補が事実上不可能になった」と激しく反発。およそ2カ月半にわたり、中心街に座り込む大規模な反政府デモ活動を実施した。

1997年の返還から50年間は「一国二制度」のもと高度な自治が認められている香港。その香港で育った若者は、“中国人”ではなく、民主主義的な価値観の“香港人”としてのアイデンティティーを持つ。しかし、国家体制安定化のため影響力を強めたい中国政府は、愛国心を育成する教育プログラムや言論統制と、彼らのアイデンティティーを危うくするような政策を導入する。

一方、香港経済は、資本主義・市場経済の浸透で全体としてみれば中国より豊かな半面、貧富の格差が大きく、若者の貧困化が深刻。

2015年の一人当たりGDPは香港は4万2390ドルで多い方から18番目。中国は7990万ドルで76番目、アメリカは5万5805ドルで6番目、日本は3万2480ドルで26番目(出所はウィキペディア)。

それに対し、所得や資産の格差がどの程度あるかを示す再配分後のジニ係数(パーセント化されたものは指数)は、香港が53.7%(2011年)と悪い方から12番目で、中国が47.3%(2013年)と27番目、アメリカが45.0%(2007年)と41番目、日本が37.9%(2011年)と73番目。40%以上が社会騒乱の警戒ライン、60%以上が危険ラインとされる(出所は次のサイト:http://top10.sakura.ne.jp/CIA-RANK2172R.html)。

そんな状況下で押し寄せる中国からの観光客のため、自分たちが買っていたスニーカーやCDの店舗が貴金属店や化粧品店に変わっていく。物価や不動産価格も高騰し、持ち家をあきらめざるを得なくなる。持ち家は結婚の条件なので結婚も…。

若者の不満は地下のマグマのように蓄積される。本を正せば中国が悪いのではないのか、中国許せん、という感情がこみ上げてくる。

そんなところに火をつけたのが、行政長官の新たな選挙制度。2017年から1人1票の「普通選挙」が導入される予定だったが、中国は候補者について、新設する「指名委員会」の過半数の支持が必要で、候補は2~3人に限定するとし、事実上、中国共産党の意向に沿わない民主派が出馬できなくした。

もう我慢ならんと若者たちの不満がついに爆発。デモによる座り込みにより幹線道路が封鎖され、公共交通手段の運行停止、臨時休業・休校も相次いだ。

というのが「雨傘運動」に至るまでの背景じゃないかと。強大な中国を敵に回す姿に現実的を見ろという大人に対し、自分たちの意見は通らないかもしれないけれど、それでもロマンを求めたいのだと言う若者。

そのためか、若者のエネルギーや青春の1ページみたい雰囲気を強く感じる。デモ様子はだんだんと飽きてくるけれど、彼らの熱さは少し羨ましい。

(以下、映画からは大きくズレた妄言を。)

「一国二制度」なはずの香港にあって中国がトップを決める理不尽。50年間約束された香港の“高度な自治”はどうなったのだと。この点について、良く似た国があることを思い出す。それは我が国日本。

内田樹先生のブログで「なぜ安倍政権は勝ち続けるのか?」という記事がある。この映画を観て思い出したのはこの記事だった。
(http://blog.tatsuru.com/2016/11/15_1128.php)

<私の解釈はこうだ。国益が損なわれ、国民が日々損害を被っているにもかかわらず、「トップをすげ代えろ」という声が上がらないのは、総理大臣の適格性を最終的に判断しているのは「自分たちではない」と国民が思っているからである。

(略)

日本の指導者を最終的に決めるのはアメリカである。

私たちが誰を選んでも、ホワイトハウスが「不適格」と判断すれば、政権には就けないし、就けても短命に終わる。そのことを国民は知っている。知っているけれど、知らないふりをしている。それを認めてしまうと、日本は主権国家ではなく、アメリカの属国であるという事実を直視しなければならなくなるからである。>

そう言われ思い返してみると、安倍首相の行動は、このことを裏付けている。トランプ氏が大統領になればいち早く表敬訪問し、アメリカがシリアに爆撃すれば、すぐに支持を表明する。

そして、自分は内田先生の言うように、アメリカが我が国の指導者を決めることを見て見ぬ振りをしているのかもしれない。

個人を尊重する戦後民主主義という体制派にいることに安心し、豊かさという麻薬に酔いしれる。政治のことはよくわからないけれど、適当に上手くやってくれれば良いよ、と。国民である自分は国家の主かもしれないけれど、その思考回路はバカ殿そのもの。

今日は良さそうなお店で、美味しいものが食べられたから幸せ。北朝鮮のミサイル? アメリカに任せておけばいいんじゃない? それよりも某学園理事長の証人喚問の方が面白いし、スケート選手の引退特集の方が泣けるじゃん。

しかし気がつけば、戦後民主主義のだったはずの体制派は次第にその様を変えてきている。集団的自衛権の行使を容認し、特定機密保護法が成立する。

ふーん、でもそれでこれまでの体制が大きく変わるのかしら? とぼんやり、深く考えないでいたら、権力者という名の家臣が殿の座を狙っていて、まもなく引きずり降ろされそうな状況みたいな。

言論界の主流はそうした変化に敏感で、同じ流れにあるであろう映画界も敏感だ。17日月曜日の同映画祭のトークショーで『FAKE』の森達也監督が「制限のある方が良い映画ができる。これから先、日本も良い映画がどんどんできる」と自虐的に話していたけれど、きっと、楽しみにしてはいけないのだろう。

映画の中身とは関係なく、とても長くなってしまったけれど、要するに、香港と同じような方向に変わりつつある日本において、「雨傘運動」は海の向こうの出来事ではない気がしてきている。