厳しかった
サンドリーヌ・ボヌールをみんな撮りたいと思う気持ち、わかる、、、
ミシェル・ウィリアムズほどシャープではなくて、ベルナデッド・ラフォンほどアスリートではない。シャンタル・アケルマンにまでは振り切れない(当たり前)。
むず痒い、、、
このむず痒さ、、、
このような女性が、このような“自由”から、普段どれほど遠いところにいるか、ということを考える。
行動だけを演出したのは、そのちぐはぐさを見せるためか。心理を演出してしまえば、あたかもそういう人物のように仕上がってしまいかねないから。あえてこの、寒さと共に、フィルムに焼き付ける意味があったというのか。
図式的に考えてしまえば、理想に近いところに孤独があって、その先に死があり、その対に生活やら人間関係といった現実がある、上から下への移行を介在するのは妥協であり、多くの物語は生成と受容の過程でこの妥協を介して理解される。
この映画の主人公モナは、その図式に則るならば、理想を追求する者なのだが、あきらかにそのようにはみえない。かといって現実と向き合ってサバイブしている生活者ではない。しかしながらその中間層を横滑りするようなニヒリストでもない。
「楽して生きたい」と言いながら最も厳しい生き方をあえて選んでいるようでもあるし、「自由に生きたい」と言いながら自由とは程遠い表情を浮かべている。