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嘘はフィクサーのはじまりのケーティーのレビュー・感想・評価

嘘はフィクサーのはじまり(2016年製作の映画)
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ラストの切なさ
主人公のメンタリティに、日本人に通じるものがあり、日本ではウケなかったのかもしれない


本作は凄腕のフィクサーやロビイストの話ではなく、それに憧れ、実力不相当な運が転がり込んだフィクサーもどきの善良なおじさんの物語。主人公が冷たい仕打ちを受ける場面もあるが、終盤手前までは、ホラを吹いたり、自分から種を巻きすぎて四苦八苦くしたり、思わず他人に自慢したりと、右往左往する主人公をコメディテイストで描くが、ラストは、まるでチェーホフのようなシニカルさや切なさがある。

正直なところ、全体をもっとわかりやすく、うまく作る方法もある。フィクサーとして、ホラを吹いて金を稼いで、しかし、悲劇に見舞われて……というところを、もっとハイライトしてわかりやすく構成したら、大衆向けの作品にもできるだろう。しかし、監督がそうしなかったのは、ラストに多面的な要素を残したかったことと、フィクサー特有の話にしたくなかったからなのではないかと感じた。

本作はフィクサーもどきの善良で少し間抜けなおじさんが主人公だ。しかし、そのメンタリティには、日本人に通じるものがある。レンタルDVDに、リチャード・ギアのコメントが収録されているが、本作の主人公ノーマンを、要約すると、以下のように評している。

<ノーマンは、腹を立てるという感情が欠落している。人から屈辱を受けても、ストレスを感じても、やり返してやろうという悪意がない。大半の人間と違って、傷ついても反射的には怒らない。つらい顔は見せるが、すぐに痛みをのみこんで前向きなパワーに変える。これは並外れた才能だ>

これだけ読めばわかるように、ノーマンのメンタリティは、おそらく日本人のマジョリティと通じるものがある。実際に、私は作品を観て思ったのは、本作は、フィクサーという特殊な職業を描きながら、世の中の多くの仕事の本質をつく作品だということだ。

まず仕事には失敗が許されないこと。これは、政治家であれ、医師などの専門職であれ、会社員であれ、変わらない。基本的に成功して誉められることはほとんどないが、失敗したら批判されるのである。本作のノーマンのラストには、その本質が凝縮し、ノーマンのおかげで皆が幸せになっても、誰にも感謝されない切なさがある。

そして、もう1つは、ノーマンのように、特に会社員は、怒らない(戦わない)ことと人脈がある雰囲気が重視されることだ。一時期、就活でSNSのアカウント情報が企業に重視されていたという。しかし、何を一番見ていたかというと、発信内容ではなく、何人とつながっているかだったという。例えば、facebookなら何人友達がいたかを重視していたというのだ。さらには、就活の面接では、第一志望でもないのに第一志望と嘘をつくのは常識だし、自分の経歴をいかに盛ってアピールするかがポイントとなっている。この人とのつながりと嘘のうまさは、まさしく本作のノーマンと同じだろう。さらに、本作でノーマンは、初めは自分の利益のためにやっていたことを、次第に他人に奉仕すること事態に価値を見いだし、自己犠牲へと向かう。本作のラストのノーマンの行動は、立派だが、ともすれば、他人にやりがいを恣意的につくり、破滅へ追い込むリスクはまさしく企業の負の側面でもあり、人がよく、怒らず言われたことをやるノーマンには、大多数の日本人との共通点を見いださずにはいられなかった。

私にとって、この作品は、ノーマンの切腹にも感じた。高度経済成長期のサラリーマンが、御家人と自らを重ねたという記事を以前読んだが、そんなことをふと思い出す。ノーマンは、エセルら権力者にすがるしかなく、また本質的には善良なノーマンは、いざというときに狡猾な対処手段をもっているわけではない。例えば、「七人の侍」の百姓たちは、死んでしまう、困っていると喚き叫びながらも、本当は食糧をもっており、侍をほぼ見殺しにしながら、自分たちは盛大な祭を開催する狡猾さがある。しかし、ノーマンには本当になにもないのだ。だから、彼は切腹により、皆を守るのである。

ここまで書くと、ノーマンを利用するだけ利用して捨てることとなる政治家など、とんでもない悪人になるのだが、本作はそう単純ではない。むしろ、性善説で描いているから、人によっては作品を人間讃歌と評する人もいるのだろう。おそらくエンタメ作品に仕上げるなら、政治家などを徹底して悪人に仕立て上げたほうが、人物関係にコントラストがついて、わかりやすく盛り上がったはずだ。しかし、監督がそうしなかったのは、皆悪いことをしてないのに、それが結果的にノーマンの切腹を招き、その切腹がなければ皆が救われなかった現実だろう。ノーマンがフィクサーとして活躍するきっかけとなるイスラエル大統領・エセルに対して、妻は作品の中盤で、あなたは無意識的かもしれないけど、ノーマンを友人として接するのではなく、利用してるだけだと言う。これこそが、本質だろう。社会には、意識的でなくても、ノーマンのようにあくせくと陰で働き、上の華々しい成果を支える人もいれば、要領がよく他人の力を借りて(使って)自らの成果を上げていく人もいる。すなわち、奉公と主人が自然と世の中には別れていく。

だからこそ、監督は奉公の側であるノーマンが実は社会を支えているという温かな眼差しを本作で描きたかったのではないか。ただ、宮廷ユダヤ人とフィクサーに、そうした一般的な誰にでもある共通点を深いところで見いだし、1つの作品に仕上げていったところに監督とリチャード・ギアの洞察力がある。

また、リチャード・ギアが指摘しているように、どんな業界でも、必死でその中に入りこもうとする人間がいるが、そういう人物の素性には普通は皆、興味がないし、あまり近づきたくないと思う。しかし、そういったキャラクターを深く掘り下げ、本質をあぶり出し描いていったのが本作の作劇であり、そこにすごさがあるのだ。

しかし、一方で、主人公ノーマンは人に手の内を話すまぬけさもあり、さらには、本作はノーマンのような生き方の否定ともとれなくもない。おそらく日本で本作がウケなかったのかのは、普通に頑張って会社員などとして働いている人にとっては、自分が否定された感じが本能的にするのではないか。あるいは、本作の切り口、すなわち、ノーマンの生き方の危うさと特殊性に、(自分の生き方だからこそ)、ピンとこないのではないか。あくまでも、推測だが、そんなことを思った。本作は、リチャード・ギアの言葉を再び借りるなら、「彼らの視点から世の中を見せて、必要不可欠な存在として敬意を表した」作品であるのだが。